G.F.フルベッキ

ギドー・ハーマン・フリードリン・ヴァ―ベック(フルベッキ)

礎を据えた宣教師~近代日本と明治学院

G.H.F.Verbeck(1830.1.23-1898.3.10)

生い立ち~モラビアン派の教会に所属した両親のもとで

フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)は、オランダ、ユトレヒトのツァイストでモラビアン派の教会に所属した、信仰厚い両親のもとに生れました。フルベッキはモラビアン派の学校に学びました。

学校ではドイツ語、フランス語も学び、またイギリスからの寄宿生がいたので英語を話す機会も多かったと言います。こうして母語であるオランダ語だけでなく、ドイツ語、フランス語、英語の語学力も著しいものを身に付けていきます。この学校教育の中で受けた宗教的感化と語学力は生涯の活動の柱となり、17歳のころにフルベッキは洗礼を受けました。

モラビア派の学校卒業後、フルベッキは親族の勧めもありユトレヒトの工業学校に進学して鉄鋼技術などの機械工学を学び卒業、短期間ではありましたがツァイストの工場で働きました。

多感な少年時代、フルベッキはギュツラフの東洋伝道についての熱烈な講演を聞き、大いに感化を受けました。このことが後にフルベッキを宣教師へと導くことになったと言えるでしょう。

ツァイストから希望の国アメリカへ~病床での祈り

22歳となった1852年9月、フルベッキは単身アメリカに渡りました。先にアメリカに移住していた姉妹たちの後押しもありましたが、フルベッキ自身のツァイストの地に安住することなく、外の世界を見てみたい、エンジニアとしての自分の可能性を試したいという強い思いもあったでしょう。

この希望の国アメリカへの旅立ちに先立つ8カ月前、最愛の母の死という深い悲しみをフルベッキは味わっていました。

渡米後、フルベッキはウィスコンシン州グリーンベイ近くの工場で働き、翌1853年11月、アーカンソー州ヘレナで架橋工事に従事しました。しかし、この地での生活はフルベッキ自身にとっては過酷なものであり、また奴隷労働者の姿を見て衝撃を受けました。

アーカンソー州の気候にも馴染めなかったのか、1854年6月、コレラに罹患して生死の境をさまよいます。幸いフルベッキは回復に向かうのですが、この病がフルベッキの人生の転機となるのです。病床でフルベッキは「もしもう一度、健康が取り戻せたら、神の仕事のために身を尽くします。」との祈りを捧げ、神に宣教師となることを約束しました。

決断の時~オーバン神学校へ

コレラから回復したフルベッキはヘレナを離れ、妹夫妻のもとに身を寄せました。ここでフルベッキは再び工場での労働に従事しましたが、決して順調と言えるものではなく、訴訟沙汰にも巻き込まれてしまうという苦い体験もしました。

ここに至り、コレラに罹患した時の祈りの決断をもとに神学を学び、牧師になるという決断をします。ギュツラフの講演を聞いたあの感動が呼びさまされ、神の教えを遠く離れた土地の人々に伝える宣教師となる決意を新たにしたのです。

1856年、フルベッキはニューヨーク州のオーバン神学校に入学し、1859年に卒業します。神学生であったフルベッキは、オーバンから近いオワスト・アウトレットのサンドビーチ教会で牧師としての実践的学びを重ねます。この時、サンドビーチ教会の牧師をしていたのがS.R.ブラウンでした。この出会いがS.R.ブラウンとフルベッキが日本伝道で同労者となる始まりとなったのです。

またフルベッキは、ここで伴侶となるマリア・マニヨンと出会いました。

日本へ~宣教師として派遣される

フルベッキが神学校を卒業する1959年、オランダ改革派教会が日本への派遣宣教師を募集していることを聞き、これに応募しました。フルベッキは、S.R.ブラウン、D.B.シモンズとともに派遣宣教師に選ばれました。オランダ生まれでオランダ語が話せることも評価され、またブラウンがフルベッキを推薦したという説もあるようです。

卒業後、長老教会で按手礼を受けたフルベッキは、改革派教会に転籍して、ブラウン、シモンズとともに旅立つ準備が整いました。

1859年5月7日、ニューヨークから日本に向けて出発しました。フルベッキは新婚の妻、マリアを伴っての旅立ちとなりました。上海に寄港したのち、1959(安政6)年11月7日、長崎に上陸、ブラウン、シモンズは神奈川に向かいました。長崎に上陸したのは、日本語習得のためであったとされています。妻マリアは、フルベッキよりひと月ほど遅れて12月に長崎に到着しました。

長崎でのフルベッキ~宣教の初穂を得て

フルベッキにとって全く新しい言語である日本語修得は多くの困難を伴いました。日本語研究と同時に自宅で数名の日本人学生に英語を教え、また聖書研究も行いました。

その日本人の中に肥前鍋島藩の家老、村田若狭、その弟綾部も含まれていました。この二人はフルベッキのもとで聖書を学び、1886(慶應2)年、ついに洗礼をフルベッキから授けられました。フルベッキの働きの初穂ですが、キリスト教禁教下であり、また鍋島藩に仕える者たちへの授洗ですから、洗礼を受ける村田若狭、その弟織部、洗礼を授けるフルベッキにとっても勇気を必要としたに違いありません。

オランダ改革派教会の九州の伝道記録。

英語教師フルベッキ~済美館と致遠館に招かれる

幕府は1957(安政4)年、長崎にオランダ語通訳者育成を目的に洋語伝習所を創設しましたが、次第に英語教育の充実が求められるようになり、1858年、英語伝習所が開設されることになりました。この学校は名称を次々に変えていくのですが、フルベッキは済美館と呼ばれていた、この学校で教鞭をとるようにと依頼されたのです。

さらに1866(慶應2)年には佐賀藩の学校致遠館の館長に招聘され、佐賀藩の俊英たちの教育に当たることになりました。フルベッキは済美館と致遠館とに隔月に出勤し一日も休まなかったと言います。相当な激務であったろうことは、想像にかたくありません。

そうしたフルベッキの教え子たちには副島種臣、大隈重信、伊藤博文、大久保利通、岩倉具視、江藤新平など多くの明治期の指導者たちが含まれていました。

明治政府に招かれる~「お雇い外国人」と呼ばれ

1869(明治2)年、明治政府からの要請を受けて上京し、開成学校の設立を助け、のち大学南校(東京大学の前身)の教頭となり、教師として語学・美術・学術の教育にあたります。

また明治政府の行政組織がひとまず整うまでの間、政府の最高顧問ともいうべき立場から、さまざまな諮問に答え、多くの施策に関与することになりました。特に日本の教育制度の確立に深く関わりました。

フルベッキの明治政府との関わりの中で特筆すべきことは「ブリーフ・スケッチ(Brief Sketch)」と題される文書の提出です。日本と西洋諸国を比較し、日本の近代化のために何をすべきかの具体的提言を行ったものです。この提言をきっかけとして1871年に欧米視察のための使節団を派遣することになりました。この文書の中に「信教の自由に関する」ことが記されていることを見逃すことはできません。フルベッキにとって最も重要な宣教師としての使命を果たしたものと言えるでしょう。

宣教師フルベッキ~志を果たすために

1877(明治10)年、明治政府の職をフルベッキは辞して、本来の宣教師の職務に「復帰」し、東京築地に設立された東京一致神学校の講師となり弁証論、説教学を担当しました。

1886年、明治学院の創設時に理事および明治学院神学部教授に選ばれ、旧約聖書註解と説教学を担当しました。1888年には明治学院理事会議長も務め、明治学院の発展に寄与しました。

その多忙な日々の中で宣教師として日本各地を伝道して歩き、余暇には数々のキリスト教入門の書を出版しました。『人の神を拝むべき理由』もその一つです。

一方、1887年にフルベッキは”A Synopsis of all the Japanese Verbs with Explanatory Text and Practical Application”という日本語の動詞活用の本を横浜Kelly & Walshから出版し、日本語研究の成果も公にしました。

神学部生集合写真_明治二十六年六月

人の神の拝むべき理由

聖書和訳~日本人のため聖書を

1878(明治11)年、フルベッキは旧約聖書翻訳委員に選出されました。フルベッキが和訳した「詩篇」は不朽の名訳と評価されています。「雅歌」「箴言」はフルベッキとヘボンの共訳ともいわれています。旧約聖書翻訳が完成したのは1888年2月のことであり、フルベッキは旧約聖書翻訳完成祝賀会の席上、翻訳経過を日本語で講演しました。

国籍を持つことなかったフルベッキ~国籍なき一市民

フルベッキはオランダからの渡米によってオランダ国籍を失い、米国でも市民権を得ていませんでした。1890(明治23)年にこの問題解決のため、アメリカの市民権獲得を試みますが、拒否されてしまいます。翌年日本に戻ると、外務大臣青木周蔵を訪ね、帰化または日本政府の保護を要請しました。その結果、外務大臣榎本武揚より、妻子を含めて国内を自由に旅行・居住できる特許状が交付されたのです。

宣教の地で眠りにつく~宣教師の役目を終えて

1897(明治30)年ころから、フルベッキは持病に苦しんでいました。治療にあたっていたホイットニーはフルベッキに地方伝道に赴くことを禁じ、健康維持に努めるように勧めます。1898年3月10日、赤坂葵町の自宅で昼食を摂っている最中に心臓麻痺を起こして天に召されました。地上での生涯は68年。

3月13日、芝日本基督教会で葬儀が行われ、キリスト教界だけではなく、官界、政界など多方面にわたり、教えを受けた人々も加えて多数に上ったと言います。

葬儀後、棺は近衛儀仗兵の行列に守られて青山墓地に至り、埋葬されました。

青山霊園のフルベッキ墓碑

参考文献:

  • 秋山繁雄著『明治人物拾遺物語 キリスト教の一系譜』1982年 新教出版者
  • 中島耕二・辻直人・大西晴樹共著『日本キリスト教史双書 長老・改革来日宣教師事典』 2003年 新教出版社
  • 明治学院人物列伝研究会『明治学院人物列伝 近代日本のもうひとつの道』1998年 新教出版社
  • 井上篤夫『フルベッキ伝』 2022年 国書刊行会
  • 伊藤典子『フルベッキ、志の生涯―教師そして宣教師として』 2010年 あゆむ出版