ジェームス・カーティス・ヘボン
KEEP TRAIST~クララとともに信仰に忠実に生きた生涯
J.C.Hepburn(1815.3.13-1911.9.21)
東洋伝道の志~その思いは消えることなく
ヘボン(James Curtis Hepburn)は1815年3月13日、米国ペンシルベニア州ミルトンに生れました。ヘボンは両親の厚い信仰の内に成長し、プリンストン大学卒業後、ペンシルベニア大学で医学を学びました。その中で「いつか外国伝道をしたい」との思い抱くのですが、両親から反対されるという苦悶の日々を過ごします。
1838年、ペンシルベニア州ノリスタウンで開業したヘボンは、クララ・メアリー・リートと出会います。クララはヘボンの良き助け手となり、勇気を与え、外国伝道の志を分ち合いました。外国伝道の志を共鳴した二人は1840年に結婚しました。
二人は早速、外国伝道の申し込みを行い、1841年、医療宣教師として中国のアモイに派遣されて医療伝道に従事しました。しかし1845年、クララの病気のため帰国を余儀なくされました。帰国後はニューヨークで開業し、ヘボンは名医としての評価を得て、開業医として成功をおさめました。ニューヨークでの開業13年の間に、富と名声を得ましたが、その間も外国伝道の志が消えたわけではありませんでした。
1858年暮れ、日米修好通商条約締結のニュースを聞くと、ヘボンは北米長老ミッション本部に医療宣教師として日本への派遣を申し出ます。1859年1月、派遣許可を得たヘボンは、老父と息子サムエルを知人に託し、クララを伴い1859年4月24日、日本に向けて出帆しました。時にヘボン44歳、クララ41歳でした。
日本での生活の始まり~「コレハナンデスカ」
1859(安政6)年10月17日、神奈川沖に到着、翌18日上陸し、神奈川宿にあった成仏寺本堂に居を構えました。寺院がヘボンとクララの住まい、また礼拝の場となり、1862(文久2)年、横浜居留地※1)39番に転居するまでの約3年間、ここが活動の拠点となりました。ヘボンは「コレハナンデスカ」を何度も質問し、日本語習得と日本語蒐集に務めました。この積み重ねが、後年の辞書編纂の素地となりました。
成仏寺写真
ヘボンの医療事業~無償の医療を提供する
ヘボンが来日後、最初に取り組んだのは無償の医療事業でした。1861(文久元)年4月、成仏寺近くの宗興寺に施療所を開設しました。この施療所は約5ヶ月続いただけで事実上の閉鎖に追い込まれます。街道筋のヘボンのもとに多くの患者が集まることを奉行所が恐れたのではないかと言われています。しかし、ここで施療を受けたのは3,500人にも及んだといいます。
1862年、横浜居留地39番に新たにヘボンは居を構えました。居留地は治外法権により奉行所の権限が及ばない場所です。ヘボンはここに改めて施療所を設置し、辞典印刷・休暇のための海外旅行での中断はありましたが、1879(明治12)年、64歳になるまで、日曜日を除き毎日施療を続けました。
ヘボンの施術例の中でも歌舞伎俳優・三代目澤村田之助の脱疽による下腿切断手術は最も有名で錦絵にも描かれるほどでした。切断術後、田之助はヘボンが装着した義足で舞台に立って衆目を集めました。そうしたヘボンの医療技術は「ヘボンさんでも草津の湯でも、恋の病はなおりゃせぬ」と俗謡に歌われたほど日本人に広く知られていました。
「ヘボン塾」開塾~近代日本の有為な人材を育てる
1863(文久3)年秋、横浜居留地39番のヘボン邸内で、英学塾「ヘボン塾」が始まり、「ヘボン夫人の学校」として継続的な英語教育を開始しました。
それに先立って、1862年秋から翌年春まで、ヘボンはアメリカ領事を通して、神奈川奉行から委託された幕臣たちの教育に従事しました。その中には、日本の近代兵制の創設者となった大村益次郎が含まれていました。
「ヘボン塾」に学んだ一人に林董(はやしただす)がいます。林は「ヘボン塾」の最初の生徒であり、後に府留学生として英国に渡り、さらに明治政府に仕えて英国大使、外務大臣、逓信(ていしん)大臣※2)を歴任しました。林はクララから母親のように愛情に満ちた教育をうけた恩を忘れずに、後年になっても「学歴」の項には「ヘボン塾出身」と書いていたといいます。
他には総理大臣・大蔵大臣を務めた高橋是清、三井物産の創始者である益田孝、日本最初の医学博士となった三宅秀などがいます。
横浜居留地39番ヘボン邸
クララ夫人を伴って出かけるヘボン
「ヘボン塾」「バラ学校」、そして「明治学院」へ~明治学院初代総理ヘボン
やがてヘボン塾はJ.C.バラに引き継がれて「バラ学校」となり、さらに「バラ学校」は築地に移転し「築地大学校」と呼ばれるようになります。この「築地大学校」は宣教師たちの諸学校と合併を重ねて、1886(明治19)年「明治学院」という校名を得て、翌年には白金の地に移り現在に至ります。
ヘボンはこの時、「普通学部教頭兼生理学教授」となり、週2日ほど出講しました。また、ヘボンは『和英語林集成』第3版版権譲渡金を明治学院に寄付し、その寄付金によって普通学部生徒のための寄宿舎が建設され、「ヘボン館」と命名されました。姿形は変わりましたが、現在も白金キャンパスに大学院・教員研究室棟として名を留めています。
明治学院には設立当初以来、校長はいませんでした。しかし学院の発展につれて対外的代表者の存在が必要になり、1889年10月、ヘボンは総理(現:学院長)に選ばれました。この時、ヘボンは74歳。一度は総理就任を固辞しましたが、井深梶之助を副総理として実務を担当させることを条件に総理就任を受諾しました。
井深は1891年、1年間の留学を終えて帰国、ヘボンのあとを継いで第2代総理となります。こうしてヘボンは井深に明治学院の「舵〔梶〕取り」を委ねたのです。
1891(明治24)年6月撮影。明治学院普通学部第一期生の卒業記念写真。
台紙に卒業生氏名・教員氏名が記されている。
島崎春樹(藤村)、戸川明三(秋骨)、馬場勝弥(孤蝶)らの氏名が確認できる。
本格的な和英・英和辞典の誕生~ヘボン式ローマ字の誕生
ヘボンは日本語の習得に努め、その成果は本格的な日本最初の和英辞典『和英語林集成』という果実を生みます。
辞書の印刷は当時の最新技術を求めて上海にわたり、美華書館の技師W.ガンブルに印刷を依頼しました。ガンブルは漢字活版印刷に優れた宣教師であり、中国で初めて近代洋式による活版印刷の基礎を築きました。
1867(慶応3)年4月、『和英語林集成』印刷完了。和英の部20,772語、英和の部10,030語を収録した、世界初の本格的は和英・英和辞典が誕生したのです。この辞典に使われた表記法がいわゆる「ヘボン式ローマ字」のもととなりました。
ヘボン和英語林集成第3版扉
明治元訳聖書~ヘボンの信仰と情熱の果実
ヘボンとS.R.ブラウンは聖書の日本語への翻訳を進め、1872(明治5)年、「馬可(マルコ)傳福音書」と「約翰(ヨハネ)傳福音書」を、次いで翌年には「馬太(マタイ)傳福音書」を出版しました。
1874年、聖書翻訳委員社中(委員会)が組織され『新約聖書』の翻訳作業が開始され、紆余曲折を経ながらも、1880年、『新約聖書』の翻訳が完成し、同年4月、出版完成祝賀会が築地新栄教会で開かれました。ヘボン、ブラウンの願いであった(新約)聖書翻訳は完成したのですが、1879年、体調を崩して帰国していたブラウンは祝賀の席に参加することはできませんでした。
さらに1876年にスタートしていた『旧約聖書』の翻訳は、1882年、『旧約聖書』翻訳委員の改選でヘボンが委員長となり、フルベッキらとともに翻訳が進められました。こうして1887年、『旧約聖書』の翻訳事業が完了しました。翌年2月、翻訳出版完成祝賀会が築地新栄教会で挙行され、明治元訳聖書(めいじもとやくせいしょ)と呼ばれるようになる、旧新約聖書全巻の翻訳が完成しました。
新約聖書路加傳ヘボン譚表紙
新約聖書路加傳ヘボン譚扉
指路教会会堂建築のために~ヘボンの信仰を受け継いで
1874(明治7)年、ヘボン邸で18名の日本人信徒により横浜第一長老公会が設立されました。1876年、この教会は日本人地区の住吉町に移転し、教会堂が建てられ、住吉町教会と名乗るようになります。
住吉町教会の会員数増加に伴い、ヘボンは新会堂建設の必要性を感じ、アメリカの海外伝道局からの資金確保、またアメリカ各地を精力的に回り献金をつのり、また自らも資金を投じて、レンガ造りの教会堂建築に着手します。会堂は1892年1月に完成し、指(し)路(ろ)教会と命名されました。指路(しろ)という名称は、ヘボンの故郷ミルトンの母教会Shiloh church の名前であり、創世記49章10節の記された「シロ」に由来したもので、「救い主」「平和の主」を意味しています。
レンガ造りの教会堂は1923年9月関東大震災によって失われましたが、現在の教会堂が再建され今に至っています。
指路教会 1892年献堂(『指路教会百二十五年史』より転載)
ヘボン夫妻の帰国~日本での働きを終えて
1892年10月22日、教会堂の完成を見届けたヘボン夫妻は、横浜から船に乗り帰国の途につきました。日本での宣教は33年におよび、ヘボン77歳、クララは74歳となっていました。
夫妻はニュージャージー州イースト・オレンジに住宅を建て、静かな余生を送りました。クララは病を得て、1906年3月4に天に召されました。夫人を亡くしたヘボンの悲しみは深く、寂寥の日々を送りました。1911年9月21日、ヘボンは老衰のため天に召されました。96歳の生涯でした。
その生涯の内、33年を日本での宣教のためにささげたのです。その信仰と想いは、今も明治学院の中に息づいています。
ヘボン夫妻金婚式記念写真
ガラス乾板(明治学院歴史資料館所蔵)
晩年のヘボン(キャンパス)
『日本のヘボン』(Hepburn of Japan and his wife and helpmates. グリフィス(William Elliot Griffis)著 フィラデルフィア 1913年)口絵写真に使われている写真
注:
- 居留地(外国人居留地):政府が外国人の居留および交易区域として特に定めた一定地域のこと。1858年、日米修好通商条約など欧米5ヶ国(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダ)との条約により、箱館(現:函館市)、神奈川(横浜 現:横浜市神奈川区)、長崎、兵庫(現:神戸市兵庫区)、新潟に設置されました。ヘボン博士が居を構えた横浜居留地39番は現在の山下町の旧横浜地方合同庁舎付近にありました。居留地は条約改正により1899年に廃止されるまで存続しました。
- 逓信大臣:逓信省はかつて存在した郵便、通信、運輸を管轄する中央官庁で、現在の官庁では総務省、国土交通省に相当します。
参考文献:
- 大西晴樹 『NHKカルチャーラジオ 歴史再発見 ヘボンさんと日本の開化』 2014年 NHK出版
- 村上文昭 『ヘボン物語 明治文化の中のヘボン像』 2003年 教文館
- 秋山繁雄 『明治人物拾遺物語 キリスト教の一系譜』 1982年 新教出版社
- 中島耕二・辻直人・大西晴樹共著 『日本キリスト教史双書 長老・改革来日宣教師事典』 2003年 新教出版社