クララ・ヘボン
明治学院もう一人の創設者
(写真)C.L.Hepburn(1818-1910)
クララの生い立ち
クララ・リート・ヘボン(Clarissa Maria Leete Hepburn)は1818年、アメリカのコネチカット州で生まれました。生家のリート家は、先祖がコネチカット州知事を務めた名家で、父ハービーは商人でした。クララが幼少の時、妹サラが生まれましたが、母は産後の肥立ちが悪く20歳で他界。その後、父が再婚し、クララには5人の異母兄弟姉妹が与えられました。
クララは学業を終えると故郷を出て、ペンシルベニア州ノリスタウンの従兄弟が経営する学校ノリスタウン・アカデミーの助教となりましたが、この町でヘボンとの運命的な出会いがありました。開業医となったばかりのヘボンは海外宣教に関心を抱いており、クララと意気投合。1840年、2人は結婚式を挙げ、翌年、ボストンの港から宣教のため東洋へと出航しました。
(写真)ノリスタウン・アカデミー跡
来日までの道のり
東洋宣教を志したヘボン夫妻は、最初の滞在地シンガポールで2年を過ごした後、アヘン戦争によって開港した清(中国)のアモイに転任し、同地で長男サムエルを得ました。しかし慣れない気候と風土のなかで一家はマラリアに感染し、クララが重症になってしまいました。マカオへ移って療養しましたが回復せず、2人は宣教を諦めて帰国することにしました。
帰国後、ヘボンはニューヨーク市42番街で診療所を開き、評判を得て財産を築きましたが、新たに授かった3人の子供を相次いで亡くすという不幸にも見舞われました。クララは追悼の気持ちで、子供が生前通っていた幼稚園の教師になりました。
1854年、長きにわたり海禁政策を続けてきた日本が開国。1858年に日米修好通商条約が締結され、神奈川をはじめとする4港の開港と外国人居留地の設置が定められました。そのことに神の御心を感じたヘボン夫妻は、ニューヨークでの病院経営を打ち切り、すべてを売り払って、息子サムエルを知人に預けて日本に向かいました。1859年10月、ヘボン夫妻は神奈川沖に到着。ヘボン44歳、クララ41歳の秋でした。
神奈川宿の成仏寺
来日したヘボン夫妻の宿舎には東海道神奈川宿の浄土宗寺院・成仏寺があてがわれました。アメリカ領事館が神奈川奉行所に申し入れて借用できるようになったもので、家賃は月額16ドル(現在の貨幣価値でおよそ96万円)。ブラウン一家が来日してからは、ヘボンとブラウンは折半してこれを支払いました。
1859年11月から、この寺の本堂でプロテスタントの礼拝が毎日曜日にもたれるようになりました。ブラウン一家と一緒に来た女性が小ぶりなピアノを持ち込み演奏。ヘボンもフルートを吹くことがありました。
(写真)成仏寺
明治学院の源流が誕生
1860年頃、夫妻の日本語教師と使用人の息子がヘボンに英語を教えてほしいと願い出ました。ヘボンは医療奉仕で忙しかったため、クララがアメリカに一時帰国するまでの間、毎日1~2時間教えることになりました。これが「ヘボン塾」と呼ばれる英学塾の始まりです。当時は「ミセス・ヘボンの学校」と呼ばれていました。
クララが一時帰国から戻った1863年秋、居留地39番地のヘボン邸にて継続的な英語教育が開始されました。クララは、日本ではまだ行われていなかった女子教育を想定していましたが、英学塾の評判を聞いて、遠方からも少年の入塾希望が相次ぎ、結局40人ほどの男女共学の塾となりました。
この私塾が開設された1863年を、明治学院は創設の年としています。
ヘボン塾の発展
ヘボン塾では、ヘボンが医学生の教育を受け持ち、クララは英語塾を充実させていきました。英語の方も生徒が多くなるとクララだけでは教えられなくなり、年長組はヘボンとH.ルーミス、O.M.グリーンが手伝って、英文法、数学、地理、歴史などを教え、時には聖書も教えました。クララは日本人の助手(牧野よし)を使い、英語の読み書きのほか、日本語の英訳を教え、週に一度は英作文の宿題を出して添削しました。一人ひとりの発音も厳しくチェック。そのおかげで生徒の習熟度は高まりました。
1870年、ヘボン夫妻が『和英語林集成』第2版の印刷のために上海に行くことになったのを機に、女子の生徒はM.E.キダーに引き継がれ、フェリス・セミナリーが開設されました。フェリス・セミナリーの後身であるフェリス女学院はこの年を創設年としています。
ヘボン塾は、ヘボン夫妻が辞典の印刷や休暇で日本を留守にしている間は他の宣教師に預けることにして、クララの健康が許す限り、1875年8月まで存続しました。その後は、J.H.バラの弟で、アメリカで教師をしていたJ.C.バラに委ねられることなり、「バラ塾(学校)」と呼ばれるようになりました。
(写真)ヘボン塾跡
クララの教会生活と教育活動
ヘボン塾で学んだ青年たちを中心に教会設立の気運が起こり、1874年、横浜居留地の日本人地区に住吉町教会が建てられました。初代牧師はヘンリー・ルーミス。ヘボン夫妻もこの教会に所属しました。
また、クララは住吉町教会に隣接して初等学校を開設。まだ義務教育が整備されず、学ぶ機会が少なかった子どもたち、特に女子に広く門戸を開いて、生きていくのに必要な知識を教え、技術を身に着けさせようとしました。
こうしてみると、ヘボン塾は三つに分かれて発展したということができます。一つはJ.C.バラに引き継がれてバラ学校から築地大学校となり、合併を経て明治学院に発展しました。二つ目はM.E.キダーに引き継がれてフェリス・セミナリーとなり、現在のフェリス女学院を生み出しました。そして三つ目が住吉町教会付属の住吉学校です。クララが蒔いた教育の種が各地で芽吹いていったのです。
最後の置き土産
来日から30年余り経つとヘボン夫妻は老齢となり、クララの持病のリュウマチも悪化したため、2人は日本を離れることを決意します。夫妻が日本で最後に取り組んだのは、住吉町教会の建て替え。火災に備えて、より堅牢な赤レンガの建物に建て替えることを提案しました。ヘボンは設計に関わり、アメリカから献金を募るなどしました。教会員たちも祈りを込めて奉仕し献金を集めました。1892年、赤レンガ造りの見事な教会堂が建設されました。献堂に際して名称も住吉町教会から指路(しろ)教会に変更。指路教会の建設はヘボン夫妻の日本における最後の働きとなりました。
(写真)現在の指路教会
帰米してから
アメリカに戻ったヘボン夫妻が終の棲家を構えたのはニューヨーク郊外のイーストオレンジ(ニュージャージー州)。当時この町は12の教派による47の教会が存在するキリスト教的雰囲気にあふれた地域でした。そのことが、夫妻がこの地を選んだ理由の一つであったと考えられます。
クララは1895年、日本にいる友人に以下のような手紙を送っています。
「あの美しい国を離れて、もう二年以上もたっているとはとても思えません。こちらに快適な家を建て、多くのすばらしい友人に囲まれ、日本で別れた多くの友人に会うことを除いては、こちらの異なった生活様式にも慣れました。……ヘボン博士は船旅を何とも思っていないようであり、時々わたしは、彼は再び戻りたいと思っているようだと思うことがあります。もし彼がもう少し若くて、また仕事に就けるのであれば、もう一度〔日本に〕行きたがることでしょう」(1895年2月22日、山本秀煌夫人宛て)
クララは晩年、体調不良に加えて認知症が進み、老年のヘボンには介護が困難となったため、サナトリウム(療養所)に入るようになりました。そして1906年3月4日、87歳で永眠しました。死亡証明書には、死因はpneumonia(肺炎)と書かれています。
(写真)夫妻の終の棲家
バラの花咲く谷に眠る
クララを亡くしたヘボンは、1911年、96歳でこの世を去りました。夫妻の墓はヘボン邸からほど近いローズデール墓地に設けられました。このヘボン家の墓地には、ニューヨーク時代に亡くした3人の子供の墓があります。ローズデールとは、バラの花咲く谷という意味。1987年、一家の墓の前に、明治学院創立110周年を記念してヘボンの横顔と業績を刻んだ御影石の顕彰碑が建てられました。今も明治学院の関係者が訪れては花を手向けています。
(写真)ヘボン夫妻墓碑(左)と明治学院記念碑(右)