ライシャワー館

明治20年代に、白金の丘に順次建った4棟の宣教師館は、慣習として最もゆかりの深い宣教師の名前を冠してインブリー館、ランディス館、ライシャワー館、バラ館と呼ばれています。ライシャワー館は、19世紀アメリカの住宅様式ですが、宣教師館の中で最も簡素な外観です。
ライシャワー館はA.K.ライシャワー(August Karl Reischauer)が家族と長年住んだことからこの名前で呼ばれています。しかし、ライシャワー館の最初の住人はライシャワーではありませんでした。W.インブリーは、1888(明治21)年7月4日付のギレスピー宛書簡の中で、アメリカ長老教会の東京常任委員会におけるヘボンの発言に以下の様に触れています。

次の記事は昨日催された常任委員会の議事録の抜粋です。ヘボン博士は次の声明をしました。

「ご承知のように、わたくしはこの目的のために明治学院の敷地の一部に一軒の家を建てました。その建築に3,000円を支払いました。わたくしはそこに住むかもしれないと思って、その家を建てたのですが、横浜から移転しないことに決めましたので、これをアメリカ長老教会ミッションに寄付したいのです。これを明治学院の教育に携わる当ミッション関係の住宅として寄付したい気持ちでおります。マクネア※1氏は建築家でありますし、その上この家の建築を親切に監督してくれた人でもありますので、同氏がその家に住むとよろしいと思っております。もしこの家が氏の気に入らないようでしたら、ミッションで指定した人に入っていただくつもりです。」

ヘボンが寄付した家とは、ライシャワー館のことであり、この宣教師館にはまずマクネアがヘボンの意向を受けて入居し、その後、ワイコフ※2の住居となり、やがてライシャワーが住むようになりました。

ライシャワーは1905年9月に妻のヘレンと共に日本へ出発し明治学院に着任、後に神学や宗教学を教えました。 1907年に長男ロバート、1910年には次男エドウィンが生まれました。この次男エドウィンが後に駐日大使となるエドウィン・オールドファーザー・ライシャワー(E.O.ライシャワー)です。彼は16歳の時までこの宣教師館で幼少年時代を送りました。博士は大使として来日した際、明治学院を訪れて、その誕生の家を眺め礼拝堂の背後に立つ楠の大樹の下に立ち、少年時代に幹に刻んだE.R.の文字が樹の成長とともに大きくなり、残っているのを懐かしんだといいます。
この宣教師館は明治学院の高等学校校舎新築工事に際して取り壊されたため、1965(昭和40)年、東村山の明治学院中学校・東村山高等学校敷地内にライシャワー記念館(ライシャワー館)として建築し、1965年3月15日に完成を記念して、献堂の式典を挙行しました。

ライシャワー館

A・K・ライシャワー家族写真 左からロバート(15歳)、フェリシア(8歳)、ライシャワー、エドウィン(12歳)、ヘレン夫人

記念樹を見るE.O.ライシャワー ライシャワー大使夫妻が学院に来訪した際、少年時代にE.R.と刻みつけた樹の枝を見上げるE.O.ライシャワー、その後はハル夫人。

注:

  • マクネア(MacNair Theodore Monroe)アメリカ長老教会宣教師。1884(明治16)年1月宣教師として来日し、東京一致英和学校教授となった。後に、明治学院の教授として倫理学、聖書学を教えた。
  • ワイコフ(Wyckoff Martin Nevius)アメリカ・オランダ改革派教会宣教師。1872(明治5)年来日後、明新館(福井)、東京大学予備門で教え、1876年に帰国。1881年9月に再来日すると、横浜に先志学校を創設。1883年に同校が築地大学校と合併し東京一致英和学校(後の明治学院)となる。ワイコフは主として化学、物理を教えた。以降、死に至るまで30年近く明治学院教授・理事として教育に献身した。

参考文献:

  • 明治学院文化財等保存修理委員会編『明治学院旧宣教師館(インブリー館)建物調査報告書』 1995年 学校法人明治学院
  • 明治學院五十年史』 1927年 学校法人明治学院
  • 鈴木範久監修 日本キリスト教歴史大事典編集委員会編『日本キリスト教歴史人名事典』 2020年 教文館
  • 岡部一興編、高谷道夫・有地美子訳 『ヘボン在日書簡全集』 2009年 教文館
  • 中島耕二・辻直人・大西晴樹共著 『日本キリスト教史双書 長老・改革来日宣教師事典』 2003年 新教出版社