井深ホール

白金校地の正門を入ってすぐ左側、現在は明治学院高等学校の体育館と校舎前庭になっている場所には、かつて白亜の※1美しい校舎が建っていました。

撮影年不詳(1970年代)

撮影年不詳(1970年頃か)上の写真とは玄関の円柱の色が異なっている。

1979年撮影

正面玄関前の大階段と、その上にそびえる古代ギリシアの神殿のような4本のエンタシス様式の柱に支えられた大きな庇(ひさし)が特徴的なこの建物は、明治学院高等学部※2の校舎として1924(大正13)年秋に着工され、翌年の春に完成しました。

大正期には、日本社会の発展に伴い中等・高等教育に対する需要が高まり、明治学院の生徒数も増加の一途を辿っていました。これに対応するための施設拡充が急務となっていたところに、1923年9月の関東大震災で既存の校舎群が深刻な被害を受けたため、学院は新校舎の建設に踏み切ったのです。建築の資材や費用には、東京府から震災復興のために配給された米国産建築材や、1921年と1924年の2回にわたって道路拡幅のために東京市に学院の敷地を譲渡した際の代金と移転補償費、海外のミッションから送られた震災修繕費、同窓生からの募金等が充てられました。

いずれも撮影年不詳だが、植栽や校舎前の状態から、創建後間もない頃の撮影と思われる。

 1889(明治22)年に初代明治学院総理ヘボン博士の下で副総理に就任し、1891年から1921(大正10)年まで30年余にわたって第2代総理として明治学院を支え、総理退任後も名誉総理として学院の精神的支柱となっていた井深梶之助の姓を冠して「井深ホール」と命名されたこの校舎は、木造で延床面積360坪(約1,190㎡)の堂々たる建築でした。まず高等学部の校舎として使用された後、1928(昭和3)年に高等学部から分離独立した高等商業部の校舎、1944年には戦時下に明治学院高等商業部と青山学院高等商業部・文学部、更に関東学院高等商業部が統合された明治学院専門学校の校舎となり、第2次世界大戦後の新しい学校制度の下でも、1949年に新設された明治学院大学や、戦前の明治学院中学部から新制の中学校と高等学校となった明治学院高等学校の校舎として使用されました。

1927年撮影 高等学部校舎時代

撮影年不詳(1933年頃)高等商業部校舎時代

撮影年不詳(1970年代)大学や高等学校の校舎として使用

 チャペルや記念館と並んで明治学院の顔ともいうべき存在感を示し、学院の学生・生徒はもとより学外から学院を訪れる人々にも親しまれた井深ホールでしたが、築後半世紀以上を経て老朽化が進み、また耐震強度の面でも危険な状態となっていたため、1979年、明治学院高等学校の施設整備の一環として取り壊され、その歴史に幕を下ろしました。

1979年3月撮影 この約2ヶ月後に取り壊された。

撮影年不詳(ただし1964年よりも前)
井深ホール玄関の円柱越しにキャンパスを望む。

注:

  • * 創建時の井深ホールはクリーム色であった旨の記述もあり(『明治学院五十年史』ほか)、外装の色は変遷があったと思われる。
  • ** 高等学部は高等学校とは異なる学校種で、専門学校(旧制)としての認可を受けていた。

参考文献:

  • 『明治學院五十年史』 1927年 学校法人明治学院
  • 『明治學院八十年史』 1957年 学校法人明治学院
  • 『明治学院九十年史』 1967年 学校法人明治学院
  • 『明治学院百年史』 1977年 学校法人明治学院
  • 明治学院100年史委員会編『目で見る明治学院100年』1977年 学校法人明治学院
  • 明治学院編『明治学院の現況 創110周年記念誌』1987年 学校法人明治学院
  • 明治学院創立120周年 歴史写真集編集委員会編『真理と自由を求めて-明治学院120年の歩み-』1997年 学校法人明治学院
  • 明治学院同窓会百年史編纂委員会編『明治学院同窓会百年史』2008年 明治学院同窓会
  • 明治学院百五十年史編集委員会編『明治学院百五十年史』2013年 学校法人明治学院発行
  • 明治学院高等学校150周年委員会・岡村叔美編『明治学院とわたし』2013年明治学院高等学校