山本 秀煌

山本秀煌(やまもと ひでてる)

伝道者から教会史家の先達に

1857年12月16日(旧暦安政7年10月29日)~ 1943(昭和18)年11月22日 1901年 オーバン神学校留学前

生い立ち 伝道者としての召命をうけるまで

山本秀煌は丹後の国峰山藩一万三千石の奉行職にあった父岩井磯根(いわね)、母じんの四男として誕生しました。幼くして藩校敬業堂に学び、11歳の時に同藩の御蔵奉行山本市之進の養嗣子となりました。しかし秩禄処分で没落を強いられ、兄たちも次々と失ってしまいます。

1873(明治6)年、横浜太田砲兵付軍医長であった長瀬時衡の下に寄寓しましたが、この時に石原保太郎と出会い、山本は石原とともに約1年間、ヘボン塾で学びました。石原は1874年7月にルーミスから洗礼を受け、横浜第一長老公会のメンバーとなり、東京一致神学校に学んで、伝道者への道を歩み始めました。

一方、山本は1874年、ブラウン塾に入塾してブラウンについて勉学に励みます。ブラウン塾での勉学は、はじめは英学が中心でしたが、アメルマンを迎えてからは神学塾の様相を呈し、伝道者養成機関のようになっていました。山本は身を立てるために横浜で英語を習得し、将来に備えようとしていたので、洗礼を受けることなど考えてはおらず、むしろ反発さえ感じていたといいます。

しかし、押川方義、井深梶之助、植村正久、熊野雄七、本多庸一、島田三郎らがブラウンから英語を学ぶだけでなく、人格的に感化され、キリストを受入れ受洗していったように山本もついにキリストを受け入れ、J.H.バラより受洗するに至りました。山本の受洗は1874年8月のことです。

伝道者として

1877(明治10)年、東京一致神学校が開校すると、山本はブラウン塾生らとともに入学し、1878年4月に井深梶之助、植村正久ら13名とともに伝道師に任じられました。これは日本の伝道史上画期的なことで日本伝道の夜明けとなる出来事でした。

1878年7月、山本は埼玉県和戸へ夏期伝道に赴きましたが、その働きは地元に受け入れられ、10月には教会設立へと発展していきました。

その後、同年12月より植村正久とともに名古屋に赴き、阪野嘉一の紹介で彼の郷里である知多郡有松村で伝道活動を開始しました。植村は先に帰京しましたが、山本は名古屋にとどまり、孤軍奮闘、名古屋におけるキリスト教伝道の基礎を築きました。山本の伝道活動地域は岡崎にも広がり、在任中に10名に洗礼を授けました。山本は名古屋伝道に1878年12月から1881年5月まで従事しましたが、仏教の地盤の強い名古屋で伝道した経験は伝道者としての山本の基礎を形成するものとなりました。帰京した山本は東京一致神学校に戻り、勉学を続け、1882年6月に同校を卒業しました。

卒業後は麹町教会で仮牧師を務めた後、1883年10月フェリス・セミナリーに赴任し、教頭として1885年までブース校長を支え続けました。授業では聖書・代数・地理・訳読などの教科を担当しましたが、山本は授業に関わるだけでなく生徒を教会へと導き、さらに洗礼へ導くという伝道者としての働きも担いました。

フェリス・セミナリーを辞した山本は1885年9月、按手礼を受け高知教会に直ちに赴任しました。当時、高知は日本基督一致教会の伝道拠点の様相を示していました。山本にとって並大抵のことではありませんでしたが、その在任期間が2年足らずと短期間であったにもかかわらず、数多くの青年を受洗へと導きました。こうして草創期の高知教会の教勢拡大に多大な貢献をしたのです。この高知教会在任の間、坂部さとを妻に迎えました。さとは共立女学校に学んだ人物であり、礼拝前に讃美歌の歌唱を指導したり、日曜学校で聖書や讃美歌を教えたりして、山本の伝道活動を支え続けました。

高知教会を辞任した山本は1887年6月、横浜住吉町教会へ赴任しました。この教会は後に、指路教会へと発展する教会です。山本の横浜住吉町教会赴任はヘボンとの関係が深かったからではないかとも言われています。

その時期、キリスト教界は多くの困難な課題に直面し、「暗い谷間」を歩むことが余儀なくされていた時代でした。1889年の憲法公布、1890年の教育勅語発布により近代天皇制が確立し、キリスト教は次第に阻害の対象となり教勢が停滞し、またキリスト教界内でも日本基督一致教会と日本基督組合教会の合同決裂、ユニテリアン思想※1、プリマス・ブレズレン※2の動きなどキリスト教界、信徒の信仰そのものを根底から揺り動かすような問題が生じていたのです。

山本は、そうした動揺に対して、神学的な見識を持って対処し、信徒を励まし導きました。その中で、山本の内に「自己の伝道や神学を顧みる必要があるのではないか」との思いが沸き上がり、未だ神学らしいものが日本の地に確立していない時期にあって、福音主義の信仰に立つ教会を志向するには、いったん教会活動から離れて自己研鑽を積む必要があると考えるようになっていきました。

こうして1901年、14年間仕えた指路教会を辞任し、オーバン神学校へと向かうこととなるのです。

オーバン神学校留学とその果実

しかしオーバン神学校への留学は周囲が一致して賛成するところではなかったようです。 オーバン神学校への留学を相談されたヘボンは山本に対して留学を否定するような手紙を送っています。大学院課程で受講するために要求されるのはかなり高度なものであること、また経済的負担が大きいと説き、「アメリカで得ることのできるすべての神学の教えを、明治学院において得ることができると、わたしは確信しています。インブリー博士以上の教師や教授は、我が国の神学校にはおりません。一年間、指路教会の責任から離れ、日本中を旅し、いろいろな教会で福音を述べ伝えたり、聖書やキリスト教冊子を配ったり、同じ主題について講義することはいかがですか。」(1900年10月19日の手紙:『ヘボン在日書簡全集』 477頁 岡部一興編、高谷道男・有地美子訳 教文館 2009年)と留学を思い留まるよう説得しています。

山本は考え抜いた結果、家族を残し一人、研鑽を積むためオーバン神学校への留学へと旅立ちました。

オーバン神学校は、アメリカ・ニューヨーク州にある神学校で、オワスコ湖に近い緑深い町にあります。オーバン神学校は聖書学と教会史学を特色とする神学校で、教会史のヘスティング・ニコルス、説教学のアーサー・ホイトら著名な教員達がいました。学生はモルガン・ホールと呼ばれる寄宿舎で生活し、時にはキャンパス内の教授の家にも招かれ親しく交流することもあったといいます。山本もそうした輪に加わり、1年間しかない留学期間中、沢山の神学生と交流し、直に神学者に接して学びを深めました。特にアーサー・ホイト教授の説教学の授業には大きな影響を受けました。こうしてオーバン神学校での学びは、山本の帰国後の活発な伝道を展開していく素地を作り上げていったのです。

1902(明治35)年7月、山本はオーバン神学校での学びを終えて帰国し、同年11月に山口教会の牧師として赴任し、1906年4月まで牧会に従事しました。オーバン神学校で研鑽を積んで得た事を発揮させたいという熱意と意欲に燃えて伝道活動を行い、山口教会は地方都市の教会として重要な位置を占める教会へと成長していきました。

山本は続いて1906年5月に大阪東教会へ赴任することとなりました。当時、大阪東教会は内部問題を抱えており、その解決のための人材を求めており、その人材として選ばれたのが山本だったのです。大阪は山口とは異なる大都市、商業の町とこれまでとは全く異なる環境でした。大阪東教会は山本の忠実な牧師としての働き、そして力強い説教、信徒とのしっかりとした信頼関係が築かれたことで大阪東教会は教勢を盛り返し、「活気的気風に満ちた」教会へと成長していきました。その有様は山本の牧会と教会員の祈りがエネルギーとなって吹き出したかのようです。それは山本が着任する前の礼拝出席者が20名あまりだったのに対して、80名にまでなるという目に見える数字になって表れました。

その働きの影で、これまで山本の伝道活動を支えてきた最愛の妻さとが1907年12月14日に、二男五女を遺して、まだ45歳という若さで逝去したのです。山本にとってクリスマスの喜びの時を前にして、大きな悲しみとなりました。

明治学院神学部教授 教会史、キリスト教史の研究に大きな貢献する

1907(明治40)年10月、山本の手元に井深梶之助からの手紙が届きました。それは明治学院神学部への赴任を懇請するものでした。その書簡は1907年10月18日付から1908年11月25日付まで7通に及んでいます。山本はその懇請を引き受けられないと返信しますが、井深は山本の学識、また牧会活動を高く評価しており、明治学院神学部が山本を必要とする理由を切々と説きました。大阪東教会のことも心配だと思うが、有為な人材を育成することを考えて欲しいとの井深の粘り強い説得に、ついに山本は懇請を受諾することにしました。ブラウン塾で共に学び、また先輩でもある井深からの願いとなれば、断り切れなかったという事情もあったかもしれません。こうして1908年12月、大阪東教会を辞し、1909年1月、山本は明治学院神学部教授として迎えられました。山本が担当した科目は、牧会学、教会政治と2・3年生の説教学でした。全てが初めての講義でしたが、山本は準備と講義に力を注ぎました。

山本は神学部での教育に携わる一方で、キリスト教史研究に没頭し、多くの著作を著しました。その著作は単行本として16冊にも及んでいます。それらは資料を丁寧に蒐集し、それらを駆使して著された力作であり、著作自体が日本キリスト教史を学ぶ上での貴重な資料となっています。特に1929(昭和4)年に刊行された『日本基督教会史』は、1922(大正11)年の編纂着手から7年の歳月をかけて著された、山本でなければなしえない業績であったということができるでしょう。その刊行1929年は、ヘボン、ブラウン、フルベッキらが1859(安政6)年に来日してから数えて70年という記念すべき年でした。

キリスト教史以外では、『新栄教会六十年史』、『フェリス和英女学校六十年史』など幅広い研究をして成果をあげました。山本は1924(大正13)年3月まで明治学院神学部教授の職務に従事し、その後講師として1928(昭和3)年3月まで、後進の育成に心を砕き続けました。

なお、山本はこの明治学院神学部教授時代の1911(明治44)年、井深梶之助夫人花子のすすめを受けて、栗本壽多と再婚しています。

1912年5月 神学部卒業記念写真 
最前列左から4番目

撮影年不詳 神学部集合写真 
最前列右から5番目

信教の自由のために~宗教団体法阻止の活動

山本の晩年に関わったことがらとして注目すべき働きが宗教団体法を阻止した運動です。

宗教団体法は1927(昭和2)年と1929年の2度にわたって上程されましたが、山本は「信教の自由」の立場に立ち、「宗教法案反対基督教同志会」を結成して、自ら会長となり活動を牽引しました。山本にとって、信仰は命がけでした。1927年2月の信徒大会で、山本は「信教の自由と宗教法案」と題して、「今日帝国議会に提出された宗教法案は時代錯誤の法案である。就中信教の自由を拘束する点において殊に然りである。是れ猛烈なる反対を諸方面に惹起したる所以である。」とし、信教の自由は人類の権利であり「治国平天下の要望」あると力強い演説を行ったといいます。集まった聴衆に向けて、宗教法案反対を訴え、その機運を盛り上げていきました。山本らの運動は功を奏し、1927年と1929年の2度に渡って法案を審議未了へと追い込むことができました。さらに1929年7月、山本ら「宗教法案反対基督教同志会」のメンバーは、この結果に油断するのではなく、さらに来たるべき時に備え、組織を再編、強化すべきことを自覚して「信教自由基督教同盟」を創立させ、新たな運動を続けました。

しかし1935年以降は残念ながら、ファシズムの影響もあったこと、またのちに日本基督教教団の統理となる富田満等が反対運動を展開するのではなく、修正案を持ち出す形に変容し、キリスト教の各派をまとめることができない状態になり、政府主導の宗教団体法が成立し、1941年、日本基督教団が成立しました。「組織温存という考え方に立った時、国家権力は途轍もない力で襲い掛かり、その代償は計り知れないものをもたらし、どこまでも国家に追従しなければならない結果を招いていったのである。そして信教の自由と政教分離を掲げて戦ってきた各派中最大の教派であった日本基督教会が、苦渋の選択をして統理というものを引き受け、国家権力に屈従する道を選んだのも皮肉な歴史的事実」(岡部一興『山本秀煌とその時代 伝道者から教会史家へ』 255頁 教文館 2013年)となってしまったのです。

1927年初夏 七十路会記念写真 原胤昭宅にて 前列左から2番目

ふたたび牧者として

1932(昭和7)年10月、山本は高輪教会の主任牧師に就任します。この時、山本はすでに76歳の高齢になっていました。そこで副牧師として関俊平を迎え、二人で伝道活動を行うことにしました。

その頃の日本の社会状況は満州国樹立など軍国主義政策が突き進み、世界の国々からきびしい声が上がっている時であり、日中戦争の激化、そして日米開戦へと進む暗い時代でした。

そのような困難な時代、山本は誠実そして熱意ある祈りと説教によって、動揺していた信徒を励まし続けました。さらに1933年7月、懸案であった新教会堂の建築も成し遂げました。その設計は、帝国ホテルの設計者フランク・ロイド・ライトの門下生であり、高輪教会の信徒である岡見健彦で、教会堂はライト式建築物として貴重なものとなっています。

1938年1月、山本は高輪教会主任牧師の職を退き名誉牧師となり、また顧問として毎週の礼拝に忠実に出席し続けました。1943年1月、体調の異変を覚えた山本は体調回復を見ることなく、11月22日、86歳の生涯を閉じました。葬儀は11月26日午後2時から高輪教会で教会葬として営まれました。

教会をこよなく愛し、ただ主のため、教会のために一身を捧げた生涯でした。

注:

  • キリスト教正統派教義の中心である三位一体論に反対し、神の単一性(unity)を主張し、イエスの神性を否定する教派およびその主張。(『キリスト教大事典』1988年 教文館)
  • 1830年頃、イギリス教会牧師ダービー、J.N.(Darby,J.N.)を中心として英国南部のプリマスで起こった平信徒運動。教会の現状と分裂を嘆き素朴な使徒的教会を目指した。(『日本キリスト教歴史大事典』1963年 教文館)

参考文献、引用文献:

  • 岡部一興『山本秀煌とその時代 伝道者から教会史家へ』2013年 教文館
  • 岡部一興「山本秀煌-伝道者から教会史家の先達に」(明治学院人物列伝研究会編『明治学院人物列伝―近代日本のもうひとつの道』所収) 1998年 新教出版社
  • 岡部一興編、高谷道男・有地美子訳『ヘボン在日書簡全集』2009年 教文館