島崎藤村

島崎藤村

近代詩の「革新」から日本の自然主義文学を代表する作家へ

島崎藤村

出まれ~明治学院

島崎藤村(本名:島崎春樹)は、1872(明治5)年3月25日、当時の筑摩県馬籠村(後に長野県木曽郡山口村字馬籠、現在の岐阜県中津川市)に父正樹・母ぬいの四男として生まれました。

10歳の頃に馬籠から東京に上京します。姉そのと、夫の高瀬薫が東京で暮らしていたため、高瀬家に預けられながら、泰明小学校に通いました。

その後、三田英学校、共立学校を経て、英語を勉強するには明治学院がよいだろう、との助言を聞き、1887(明治20)年に明治学院普通科に入学しました。

藤村の普通学部同期生には、のちに雑誌『文学界』で一緒に活躍する戸川明三(戸川秋骨 とがわしゅうこつ)や馬場勝弥(馬場孤蝶 ばばこちょう)が、下級生には画家の和田英作や三宅克己がいます。戸川秋骨と馬場孤蝶は、このような文章を残しています。

「明治学院には我々の仲間の内では島崎君が一番早くからいたのです。その次に私がはいり、それから馬場君が来たのです。その頃の島崎君というものは大変なハイカラでした。西洋人がよく穿いているような膝までくる長い靴下に半ズボンという拵装(こしらえ)で、からだを少しこごみなりに気取って歩いたものです。」(戸川秋骨「明治學院時代」、『趣味』第二巻第十二号)

「戸川、島崎の両君を始めとして、文学の方面に出た人があるのは、主として、時代の潮流に誘われたのが第一で、第二は明治学院の学風が自由放任であったと共に、文学に関する課目がかなり多かったことであろう。」(馬場孤蝶「明治学院及び『文學界』時代」、『趣味』第三巻第一号)

彼らと共に青春時代を明治学院で過ごし、その自由な校風のなかで藤村は次第に文学に目覚めていきました。藤村は、このような文章を残しています。

「私が白金の明治学院の学窓に居た時代のことを思うと、当時に起って来た学問と芸術の復活はかなりめざましいものであって、少年期より青年期に移る自分はいろいろな刺激を受けた。私の文学に志した時代はそれまで、埋もれていいた自国の古典が日本文学全書、歌学全書等という叢書になって毎月の様に出版された最初の時であった。・・・私はまだ二十才に達しないほどの若い年頃ではあったが当時の明治学院が英語と英文学を修めるに便宜の多かったところから、英吉利(イギリス)の諸詩人の伝記などを読んだり、時にはその抄訳を試みたりした。」
「私の文學に志した頃」(『中央文學』(大正十年十月号、『島崎藤村全集』別巻下 昭和四十六年五月三十日発行所収)

「私は十七から二十までの間を、明治学院の学窓で送った。学院のあるところは、白金今里町で、今は町が出来たり、人家が増えたりしているが、私のいた時分は、樹木の多い、静かな場所で、御殿山なども、その時分は開放されて、自由に出入りすることができたので、学校で勉強する余暇には、よくあの辺の谷間やら、丘やら、樹陰の多い道などを歩いたものだ。自然というものが、私の眼に映り始めた丁度その時分であった。その界隈の静かな景色は、今も尚私の脳裏に忘れるべからざる印象を残している。・・・それから学校の講堂では、いろんな文学、宗教、又は哲学に関する講演があって、大西祝氏の『悲哀の快感』、徳富蘇峯氏の『インスピレエション』などいふ説が、その講堂で発表された。かくいう諸先輩の新しい意見を聴いたり、新説に接しようとしたりしてチャペルの窓に日が赤く映る頃、開会を知らせる鐘が鳴ると、友達などと一緒に寄宿舎から出かけて行った。」
「明治學院の學窓」(『島崎藤村全集』第六巻 昭和四十二年四月十日発行)

島崎藤村と学友たち
島崎藤村は1887(明治20)年明治学院普通学部本科に入学、1891 年 明治学院を卒業。この写真はその間に撮影されたものであると考えられる。前列左が藤村。

初代ヘボン館(普通学部寄宿舎)の前で
前から2列目、左から2人目が藤村。

藤村はその後、1891(明治24)年に明治学院普通学部の第一期生として最初の卒業生の一人となりました。 卒業後は文学の道に進み、自身の著作『櫻の實の熟する時』に明治学院をいきいきと描いています。

第一期普通学部卒業生とヘボン 1891(明治24)年6月
4列目の左から2人目が島崎春樹(藤村)

明治学院記念館と島崎藤村

島崎藤村が明治学院に在学していた頃、神学部校舎兼図書館が建てられました。煉瓦造りの建物の2階には図書・雑誌の閲覧室があり、藤村は、小説『櫻の實の熟する時』の中でこのように書いています。

「・・・まだペンキの香のする階段を上って行って二階の部屋へ出ると、そこに沢山並べた書架がある。・・・書架で囲まれた明るい窓のところには小さな机がおいてある。・・・」※1

その建物は「明治学院記念館」として、現在も使われています。

神学部校舎兼図書館 1890(明治23)年頃

サンダム館

明治学院が白金の丘に移ってから、教室・講堂のあったサンダム館、寄宿舎のヘボン館・ハリス館などが次々と建てられました。当時は週に1度、サンダム館で「文学会」が行なわれており、クラスから代表者を出し合い、表現力や論理の正確さを競い合うもので、藤村も含めた学生たちは、日ごろから英文・英詩の暗誦や日本語・英語の演説を練習していました。

サンダム館 1888(明治21)年頃

小諸義塾

藤村は共立学校時代の恩師・木村熊二が高輪台町教会の牧師に就任して間もなく、明治学院同期生たちと洗礼を受けます。また、藤村は明治学院に入学してから、木村熊二の家をしばしば訪問し、一時は熊二の家から明治学院に通学もしています。藤村は後に、熊二を通じ『女学雑誌』の編集者であった巖本善治とも知り合います。藤村と熊二の交流は、その後も続き、1899(明治32)年、木村熊二が開いた小諸義塾に、藤村は教師として赴任します。このことを、藤村は『力餅』の中の「浅間の麓」にこのように記しています。

「木曾福島の姉の家から東京のほうへ帰って行く時のことでした。わたしはその途中で信州小諸に木村先生の住むことを思い出しました。木村先生はわたしの少年時代に、東京神田の共立学舎で語学を教わった古い教師でありますし、その後わたしが芝白金の明治学院へかよったころにも先生は近くの高輪に住んでいたものですから、よくおたずねしたことがありました。先生が信州のいなかに退かれてからはお目にかかるおりもなかったので、久しぶりで先生のお顔を見たいと思い、小諸の耳取(みみとり)というところにある先生の家をたずねました。わたしが小諸の土を踏んでみたのも、それが最初の時でした。

人の世はふしぎなものですね。その時わたしが木村先生をおたずねしなかったら、小諸義塾のあることも知らなかったでしょうし、先生の教育事業を助けるようにとのご相談も受けなかったでしょう。わたしはよく考えた上でとお答えして、いったん東京へ帰りました。ただ先生のような人が小諸あたりに退いて、学校を建て、地方の青年を相手に田園生活というものを楽しんでおられるのをゆかしく思ったことでした。」

文学界

1891(明治24)年に明治学院を卒業した藤村は、恩師である木村熊二を通じて、知遇を得ていた巌本善治から『女学雑誌』の翻訳の寄稿を頼まれます。これが藤村が文筆の世界へ入るきっかけとなりました。翌年、善治は自分が校長を務める明治女学校の教師に藤村をむかえます。教頭には星野天知(ほしのてんち)がいました。天知の弟である夕影(せきえい)や平田禿木(ひらたとくぼく)もいました。1893(明治26)年『文学界』は星野天知の編集で発行されました。北村透谷や樋口一葉らの活躍も大きいですが、藤村をはじめ戸川秋骨、馬場孤蝶など明治学院卒業生の重要な働きもありました。

校歌作詞

明治学院から校歌の作詞を頼まれた時、島崎藤村の長女・緑は危篤入院中でした。その少し前に藤村は次女・孝子を、前年には三女・縫子を病気で亡くしています。

そんな中、1906(明治39年)に第二代総理・井深梶之助より校歌の作詞を依頼されます。藤村は、「明治学院は私を育ててくれたところですから」と、校歌の作詞を快諾したといいます。

のちに島崎藤村が日本ペンクラブ初代会長に推されるなど名を成した頃、明治学院の卒業生有志が島崎藤村記念碑を建てようと募金を始めます。記念碑建立の話を本人にしたところ、藤村は「明治学院は一個人の業績を称賛するという学風ではないなずだ」と言って即座に断ったといいます。発起人たちが考え直し、校歌碑ならよいだろうということで、藤村に歌詞の揮毫を依頼してできたのが、今も白金キャンパスのチャペル横にある「明治学院校歌碑」です。

明治学院校歌

作詞 島崎藤村
作曲 前田久八

人の世の若き生命いのちのあさぼらけ
学院の鐘は響きてわれひとの胸うつところ
白金の丘に根深く記念樹の立てるを見よや
緑葉は香ひあふれて青年わかものの思ひを伝ふ
心せよ学びの友よ新しき時代ときよは待てり
もろともに遠く望みておのがし道を開かむ
そらあらばそらきわめむつちあらばつちにも活きむ
ああ行けたたかへ雄雄志おおしかれ
眼さめよ起てよおそるるなかれ

明治学院校歌碑

記念樹

切り倒された記念樹の一部が、明治学院歴史資料館に保存されています。 藤村は68歳の時、かつて明治学院で英語を教えてもらった恩師・井深梶之助(第二代明治学院総理)の葬儀に参列するために学院を訪れました。藤村は、すぐに自分たちが卒業記念に植えた「いぬぐす」の木の前に行き、その太い幹をなでながら「大きくなるものですね」と周囲の人に言ったといいます。

明治学院校歌碑
卒業時に植えた記念樹(楠)の前に立つ晩年の島崎藤村

参考文献:

  • 戸川秋骨「明治學院時代」『趣味』第二巻第十二号
  • 馬場孤蝶「明治學院及び『文學界』時代」『趣味』第三巻第一号
  • 島崎藤村「私の文學に志した頃」『中央文學』大正十年十月号、『島崎藤村全集』別巻下 昭和四十六年五月三十日発行所収
  • 島崎藤村「明治學院の學窓」『島崎藤村全集』第六巻昭和四十二年四月十日発行 1967年
  • 島崎藤村『桜の実の熟する時』新潮社
  • 川副国基『写真作家伝叢書 島崎藤村』1965年 明治書院
  • 青山なを「木村熊二と島崎藤村」『比較文化第8号』抜刷 東京女子大学附属比較文化研究所 1962年