賀川豊彦

賀川豊彦

賀川豊彦

出生~明治学院入学前

賀川豊彦は1888(明治21)年7月10日神戸市に生まれ、5歳の時に相次いで両親を失うと、徳島県の賀川家に引き取られました。13歳の時には肺結核だと診断されます。その後、ローガン博士との出会いを通してキリスト教に触れた賀川は、16歳で宣教師H・W・マヤス博士より洗礼を受けました。

明治学院時代

1905(明治38)年に徳島中学校を卒業し、明治学院神学部予科入学。在学中に徳島毎日新聞に「世界平和論」を投稿し掲載されます。1907年に明治学院神学部予科を修了すると、マヤス宣教師が教授として迎えられた神戸神学校へと進み、1911年に同神学校を卒業します。

1920年に出版された、代表作『死線を越えて』は、「東京芝白金の近郊(ちかく)に谷峪(たに)が三つ寄った所がある。そこは、あちらもこちらも滴る計りの緑翠(みどり)で飾られているので、唯谷間に湿っぽい去年の稲も株がまだ覆(かや)されていない田圃だけに緑もない」と、当時の明治学院周辺の風景を描写ではじまります。

神戸新川での伝道

神戸神学校に在学中の、1909年21歳の賀川は貧困にあえぐ人々のために献身しようと、神戸市葺合区の新川で「救霊団」を設立し、貧しい人と共に生活しながら、キリスト教の伝道活動を始めます。

1913(大正2)年に新川の福音舎という聖書をつくる印刷所で女工の監督として働いていた芝ハルと結婚。

1914年、賀川はプリンストン神学校、ハルは横浜共立女子神学校へ入学。1916年にはプリンストン神学校より神学学士号の学位を受けます。1917年にアメリカから帰国すると、新川に戻り、再びキリスト教の伝道活動と社会事業を始めます。帰国後の賀川の変化は救霊団活動や伝道活動に表れます。生活に困っている人を救うだけでなく、どのようにすれば生活に困る人をなくせるか、という考え方に変わり、次第に団結の力により防貧に努め、生活を守り安定を図ろうとする構想が生まれます。この構想が、労働組合、生活協同組合、農民組合へと広がっていきます。

1918年には、友愛会※1に加わり、神戸地区の労働運動に参加し次第に関西一帯の指導者となっていきます。1919年、労働運動と並行して消費者組合運動をおこし、大阪に購買組合を設立します。

1920年に賀川は『死線を越えて』を出版します。もとになったのは20歳のときに三河の蒲郡、府相で結核療養した9カ月間に書いた『鳩の真似』で、『死線を越えて』として書き改められ、雑誌『改造』に連載されました。1920年10月に改造社の処女出版として刊行されると、2カ月足らずで16版を売り切り、350版を重ねる大ベストセラーとなりました。『死線を越えて』『太陽を射るもの』『壁の声きく時』の三部作合計でおよそ50万部が出版され、現在では様々な言語に翻訳され、読まれています。

『死線を超えて』ドイツ語訳

1921年7月には第二次大戦前の日本最大規模の労働争議である、川崎造船所、三菱造船所に労働争議がおこり、友愛会がそれを指導、賀川も中心人物となって指導しましたが、示威行動中の労働者と警官隊との衝突により、賀川をはじめおよそ180人の組合幹部が一斉に逮捕され、同年8月に労働組合側が敗北しました。『死線を越えて』の印税はこれらの労働争議の後始末や日本農民組合を興す費用にもあてられました。また、同年、神戸購買組合を設立し、イエスの友会イエス団(救霊団を改祢)を結成しました。

1922年、34歳になった賀川は、『雲の柱』という雑誌を発行します。また、財団法人神戸イエス団を設立。更に、杉山元治郎と共に日本農民組合を創立し、小作料の適正化や、小作契約の正常化を目指し、活動しました。

関東大震災とボランティア活動

1923年9月1日午前11時58分32秒に、東京、横浜を中心に未曾有の大地震が起こり、多くの建物が倒壊しました。死者105,385名、全潰全焼流出家屋293,387に上り、電気、水道、道路、鉄道等のライフラインにも甚大な被害が発生しました。大震災の知らせは、翌9月2日に神戸にいた賀川にも伝わり、3日には神戸港から山城丸という船に乗船し、4日朝には横浜港に到着。徒歩で東京に向かい、六郷(現・東京大田区)から再び船で品川に上陸しました。日比谷の東京聯合震災事務所及び、神田三土代町のYMCAを訪問し、今後の救援活動について相談していますが、YMCAではイエスの友会の聖修会に参加したばかりの石田友治主事に協力を要請することができました。

7日に神戸に戻ると、大阪、神戸、中国、四国、九州を義援金集めに奔走し、10月7日に再度東京に向かいました。16日には、布団、綿入れの着物などの物資を調達し、イエス団と共に本所松倉町に運びました。

本所区では、基督教産業青年会が中心となり、東大セツルメントの学生や早稲田大の学生と協力して救済活動を行いました。賀川のこれらの救済活動が、日本における「ボランティア」活動の始まりといわれています。

共に生きるために-協同組合運動、伝道活動、社会事業活動

1924年、賀川は帝国経済会議、中央職業紹介委員会などの委員になります。同年11月25日には、全アメリカ大学連盟から招待され、ヨーロッパ諸国も併せて視察する予定で出国しました。1925年には、日本救癩協会(日本MTL(Mission to lepers))が誕生し、賀川はその中心となって活動します。1926(大正15・昭和1)年、現在の大学生協の前身となる、東京学生消費組合を組織します。1959(昭和34)年、明治学院にも明治学院消費生活協同組合が設立され、今日まで生協は学院の学生に利用されています。

1927年の『雲の柱』6巻3号に「社会問題として見たる癩病絶滅運動」というタイトルで、「私が何故癩病問題を喧しく云うかと云えば、それは国民の社会的能率を上げる為に云ふのである。日本MTLの使命は、日本人である我々が同じ日本人である癩病患者を、少しでも愛し様と云う」ことにあると説明する文章を記しています。

「賀川服」と呼ばれる背広を着た賀川豊彦
当時安価だったコーデュロイ地で背広を作り「賀川服」と命名し1921(大正10)年に販売した。夏服は1円50銭、冬服は7円50銭だった。

ヨーロッパから帰国した賀川は、イエスの友会全国大会において「百万人救霊運動」を開始することを宣言。大阪の労働者街に四貫(しかん)島(じま)セツルメントを創設しました。このセツルメントセンターは、イエスの友会の創立者の一人である、吉田源治郎指導の下で、乳幼児の世話、病気の診療、妊婦の健康相談を行い、更に最大300家族のための訪問看護サービスも提供できるまでになりました。

1926年(大正15年/昭和1年)には現在の大学生協の前身となる、東京学生消費組合を組織します。また、1925年に開始した「百万人救霊運動」は「神の国運動」として大きな協同伝道活動となっていきました。

1927年、キリスト教精神に立った三愛主義(神を愛し、土を愛し、隣人を愛する)を育てることを目標とし、歴史・農村社会学・農業技術・農家経営・聖書の勉強などを行う農民福音学校が兵庫県西宮瓦(かわら)木(ぎ)村にある賀川の自宅で開かれました。賀川が校主で、全国農民組合長の杉山元治郎が校長を務めました。1928年には中ノ郷質庫信用組合を設立。この組合は、関東大震災の被災者のための救済活動を始めた本所に作られ、お金のない多くの人にとって、生活費を賄えるだけのお金を借りられる場所でした。

1929年に賀川は西宮より東京松沢村に移転します。

1931年、東京医療利用購買組合設立運動を開始(認可1932(昭和7)年)。また、松沢教会が設立され松沢幼稚園が開園しました。1933年に日本協同組合教育協会を設立しました。1934年には東北飢饉救済に「親類運動」を起こし、子女を引き取ります。1936年、賀川は江東消費組合で栄養食配給事業を始めます。江東消費組合は、1927年に関東大震災の応急措置がひと段落し、それまでの救済事業が少しずつ解消される中で、セツルメント事業が協同組合の新たな活動として進められ、近隣の労働組合関係者、有志により本所基督教産業青年会が事務所として創立されました。本所付近は、家内工業者、小企業者などが多く、母親たちも仕事で多忙のため手間をかけた栄養価の高い食事を用意できないことがわかり、一日3食を26銭で朝・昼・夜配給しました。

1938年、50歳になった賀川は、社会に対しての施策や事業を支える法人として「雲柱社」を設立し、初代理事長となります。

戦争と賀川豊彦

1941年、日本基督教平和使節団の一員として渡米した賀川は、その目的を果たすことができず帰国しますが、同年12月に戦争防止のための日米での連続徹夜祈祷会を開催しました。

賀川は1940年から1943年の間に、反戦運動の扇動や社会主義思想の宣伝などを理由に、何度か逮捕、留置されます。1943年11月3日、東京憲兵隊によって逮捕され、取り調べを受けた後、公の活動がほとんどできなくなります。当時の国家の思想と賀川の思想は全く相容れませんでした。

1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れ、連合軍に無条件降伏をします。ダグラス・マッカーサー元帥が8月30日に来日した朝に、賀川は読売報知新聞に「マッカーサー総司令官に寄す」という公開書簡を発表しました。この書簡にマッカーサー元帥は応え、賀川を招き日本の占領政策について意見を求めます。賀川は日本に食料と医薬品を送ることを訴え、マッカーサー元帥もこれに応えました。

同年11月18日、賀川は日本協同組合同盟の会長に任命されます。

戦後

その後、1947年に全国農民組合、1949年には全国厚生文化農業協同組合連合会、生命保険中央委員会、1951年には日本生活協同組合連合の各会長または委員長に任命されました。

政治の方面では、1946年3月12日、賀川は貴族院に勅選されますが、新憲法を考慮し、5月12日には取り消されます。また、同年に『キリスト新聞』創刊。新日本建設キリスト運動を宣言しました。

1949(昭和24)年61歳になった賀川は、明治学院の文学部、経済学部の教授になり、協同組合論、経済心理学を教えました。

講義中の賀川豊彦

1950年欧米に、1953年にブラジルへ伝道に向かいます。1954年に世界連邦運動の副会長になると、国際平和に協力し、1955年にはノーベル平和賞の候補に推薦されました。1958年マレーシアのクアラ・ルンプールの国際協同組合同盟東南アジア会議に日本代表として出席。1957年にはタイで1か月の伝道を行いました。

晩年

1959年9月1日、四国で伝道旅行中に宇野-高松間の連絡船で激痛に襲われた賀川は、高松のルカ病院に緊急入院しました。その後、東京に戻り、翌1960年4月中旬、元気を取り戻したように見えましたが、4月23日病状が悪化し72歳の生涯に幕を閉じました。賀川は、福祉、教育、医療、生産、労働、協同組合、平和、人権、共生という、私たちの暮らしを支える根幹を築くことに、その生涯を捧げました。

著作活動

賀川豊彦は、生涯に300冊を超える書籍を世に出しました。自伝的物語から『日本協同組合保険論』のような研究書、『涙の二等分』といった詩歌まで、幅広い領域で筆をふるい、賀川自ら「ペンの福音」と呼んで大切にとらえていました。書籍から得られる印税は、活動を支える大切な資金となりました。

ほかにも寄稿、論文、報告書、個人雑誌・新聞、日記と、賀川が残した文章は膨大にあります。

『死線を越えて』

『死線を越えて』『太陽を射るもの』『壁の声きく時』の三部作では、賀川豊彦自身の投影といわれる主人公の新見栄一が病を得、困難に遭いながらも人として成長していくさまが描かれ、この「心の歴史」が多くの人の共感を得ました。

死線を越えて

『空中征服』

『空中征服』は諷刺物語として1922年(大正11)大阪日報に連載されたものを、12月に本として改造社から出版されました。

賀川は文章だけではなく、絵画にも腕を奮いました。「私は絵描きを志していれば相当な画家になれた。私は描こうとする影像が、まだ描かないうちに眼前に浮かんでくる」と賀川本人が言ったことがあるそうですが、物語は賀川の挿絵によって生き生きと描かれます。大阪市の煤煙を憂えた賀川が、夢の中で大阪市長になって市政改革に着手するという筋書きですが、太閤秀吉や大塩平八郎が議場に傍聴に来て賀川支持の演説を行ったり、空中村や人間改造機が登場したり。夢から覚めると、南京虫に食われていた、という落ちがつきます。

この物語は、痛烈な文明批評に貫かれ、フェミニズム、資本主義攻撃、官僚主義批判などが次々と繰り出されますが、ユーモアあふれる筆致で決して嫌みに陥らず楽しく読める1冊です。

注:

  • 友愛会 鈴木文治が同志15名と共に創立した協調主義的労働組合。

参考文献:

  • 『明治学院百年史資料集 第2集』「矛盾録-賀川豊彦・明治学院在学時代の日記-」平林武雄解説
  • 『白金通信』第336号(1997年10月1日)「明治学院と賀川豊彦」田村剛
  • 『賀川豊彦と明治学院 関西学院 同志社』鳥飼慶陽著
  • 『賀川豊彦・人と業績』賀川記念事業委員会
  • キリスト教大事典(昭和38年6月30日発行)
  • 『賀川豊彦とボランティア』武内勝(口述)、村山盛嗣(編集)
  • 報告書(1923 関東大震災)災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年7月 1923 関東大震災(内閣府)
  • 第十三 ハンセン病強制隔離政策に果たした各界の役割と責任(2)厚生労働省
  • 〔論文〕イエスの友会と賀川豊彦による神の国運動(1)イエスの友会の結成 黒川知文
  • coop 日本生活協同組合連合会 協同組合の歴史
  • 『改訂版 賀川豊彦伝 貧しい人のために闘った生涯』三久忠志著
  • 賀川豊彦記念松沢資料館 セミアニュアルレポート 『賀川豊彦と協同組合』第7号(2017.春)
  • 『賀川豊彦 その社会的・政治的活動』K-H・シェル著 後藤哲夫訳