井深梶之助

井深梶之助

明治・大正・昭和をダイナミックに生きた会津の人

1854年7月4日(旧暦安政元年6月10日)~1940(昭和15)年6月24日 1897年頃 井深43歳頃

出自

井深梶之助は1854年7月4日(旧暦安政元年6月10日)、会津藩重臣学校奉行、藩校日新館塾頭の井深宅右衛門の長男として会津若松城下に生まれました。1863(文久3)年、数え年10歳で藩校日新館に入学、成績は常に最優秀であったと言われています。1868年2月(旧暦慶應4年1月)、戊辰戦争が起こり、井深は越後小出島の戦いに初陣し敗走、藩主松平容保(まつだいらかたもり)の小姓となって鶴ヶ城に籠城、そして落城、親族の集団自刃という悲惨な体験をしました。

キリスト教との出会い、そしてキリスト者へ ~恩師S.R.ブラウン

1869年4月(旧暦明治2年5月)、井深は再興した藩校仮日新館に復学しましたが、同年10月、藩から洋学修業の辞令を受け、翌1870年4月(旧暦明治3年3月)、会津を後にして上京、藩の洋学塾に学ぶも藩財政の逼迫により3か月あまりで閉鎖となり、鍛冶橋内土佐藩英学塾に転学しましたが、ここも5ヶ月あまりで修行御免となってしまいます。勉学の場を失った井深でしたが、神奈川県庁の横浜修文館で学僕となることができました。学僕とは用務員を兼ねた学生のことです。この時の井深は、自分の持っていた大切な大刀を売って、教科書・辞典購入代金、生活費等に充てる窮乏の日々を送っていました。

 

しかし、井深はこの修文館で生涯の師となるS.R.ブラウンと巡り合う幸運に恵まれました。ブラウンは修文館の校長格として英語を教えていました。彼は教科書として「ウィルソン・リーダー」(The first reader of the School and family series) を用いていましたが、その中にキリストがこどもを祝福している挿絵がありました。これを見た井深はその意味をブラウンに尋ねたのです。このことがきっかけとなって、井深は日曜日ごとにブラウンやJ.H.バラのもとを訪ね聖書を学ぶようになります。井深は学びを深めるうちに次第に「山上の垂訓」※1で語られているキリストの隣人愛の倫理などに心打たれるようになり、ついに洗礼を受ける決意をブラウンに申し出ました。井深19歳の時です。井深はブラウンに紹介された横浜海岸教会長老小川義綏(おがわよしやす)のもとを訪ね、受洗決心の覚悟を伝え、1873(明治6)年1月第一日曜日、横浜居留地39番のJ.C.ヘボン邸の施療所兼小会堂でブラウンより洗礼を受け、横浜海岸教会信徒となりました。ここにキリスト者、井深の誕生がしました。

1872年 横浜時代の井深梶之助   井深18歳頃

明治学院に身を捧げる ~明治学院の「舵」をとる

1873(明治6)年、横浜山手のブラウン邸でブラウン塾が開設されると、井深はここで学び、その傍ら新約聖書翻訳委員長を務めていたブラウンの翻訳作業を手助けしました。1877年10月、ブラウン塾が他の神学塾と合同し、東京の築地居留地に東京一致神学校が開校すると井深は第一期生として入学しました。1879年に卒業し、1880年、奥野昌綱の後任として麹町教会の牧師となりました。翌1881年、東京一致神学校から助教授として招聘され、麹町教会を辞して母校で教鞭をとることになりました。

 

1886年4月、東京一致神学校、東京一致英和学校ならびに英和予備校の合併創立案が合同宣教師協議会で諮られ、明治学院創立案が採択されると、井深は神学部教授に選出され、1889年10月にはヘボン総理の右腕として副総理に指名されました。翌1890年に留学のための休暇が認められ、恩師S.R.ブラウンの母校ニューヨークのユニオン神学校で教会史を修めます。

1878年 東京一致神学校時代 井深24歳

明治学院総理井深梶之助の誕生

留学を終えて帰国した井深はヘボンに続いて明治学院第二代総理に選ばれ、1891(明治24)年11月6日、就任式が行われました。ヘボンは会衆に向かい「井深氏はその名の示す通り、梶であります。私は明治学院という船にこの新しい舵をつけました。この船はこれからどのような方向に乗り出しましても、この舵は決して針路を誤りません」と挨拶し、井深もこれに応え、「パンにあらで寧ろ修養(カルチュール)、忠君愛国にのみに偏せずして上帝を敬畏するを以て知恵の本となす」と決意を披瀝しました。この時、ヘボン博士76歳、井深は37歳の若さでした。この後、井深は1921(大正10)年の総理辞任、1924年の神学部部長・教授辞任までの33年の間、明治学院の進むべき「舵」を取り続けたのです

1878年 東京一致神学校時代 井深24歳

文部省「訓令第十二号」への対応 ~宗教教育を死守

井深が総理となり最初に直面した試練、また明治学院ならびにキリスト教主義諸学校の大きな危機が1899 (明治32)年の「訓令第十二号」の発令でした。この「訓令第十二号」により官公私立の別なく認可校において宗教教育・宗教行事は課程外であっても禁止され、法令の下にあった明治学院尋常中学部をはじめ宗教系諸学校は深刻な影響を受け、とりわけキリスト教学校への影響は多大でした。しかし井深を含めた日本人の学校指導者たちは訓令の発令当初、宣教師たちの危機感とは全く異なり、「訓令第十二号」が持つ危険性を十分認識していなかったのです。そこで宣教師W.インブリーはこの事態を深刻に受け止め、井深たちキリスト教主義学校の指導者に対して忠告を発し、今後の行動について指示を与え、険しいことが想定される当局との交渉への意志の統一を図りました。インブリーのこうした指導によって「訓令第十二号」問題に対する井深の認識が改まり、彼はその後キリスト教諸学校の日本人指導者と協力し、「訓令第十二号」の撤廃に最大の努力を傾けたのです。

 

同年8月16日、キリスト教六学校内外代表者会議が開かれ議論の末、「訓令第十二号」の憲法違反を指摘し、キリスト教教育の堅持を盛り込んだ共同声明が全会一致で採択され、翌8月17日、明治学院では臨時理事員会を開催し、他校に率先して前日の共同声明の主旨に従い、全会一致で文部省認可の尋常中学部を廃して各種学校となり、キリスト教教育を堅持する普通学部に改組することを決議しました。

 

W.インブリーは同志社のD.C.グリーンとともに政府高官と直接面談し、私立の認可校における宗教教育・宗教行事を認めさせるための行動を起こしました。当時最も政治的影響力を持つ実力者の前首相大隈重信、元首相伊藤博文そして現首相山縣有朋らと次々に会見して、このような宗教教育を禁止する「訓令第十二号」は違憲であり、また政治・外交に関わる国際問題となっていることを伝え、間接的に外交面から政府への圧力を加えました。

インブリーらの政治交渉と並行し、井深を中心にした日本人学校指導者たちの行政との実務交渉は政府・文部省を動かし、明治学院普通学部は各種学校のまま文部省認可校と同等の特権である徴兵猶予、高等学校進学資格、専門学校入学者無試験検定校資格を順次回復し、ついに1904(明治37)年、高等学校無試験入学検定校資格の回復をもって中学校令による認可中学校と同等の資格を全て回復するに至りました。

井深はインブリーの指導によって差し迫る宗教教育の危機を認識し、やがて日本人学校指導者間の意見をまとめ、文部省および東京府と教育の現場における信教の自由を守るための交渉を続け、認可中学校と同等の権利を回復するために奔走したのです。それは井深のキリスト者としての信念によるものにほかなりませんでした。

1910年 神学部卒業記念写真 井深56歳 最前列中央

国際舞台での井深梶之助の活躍

ブラウンのもとで英語を学び卓越した英語力を身に付けた井深は、その語学力をもって国際的なキリスト教諸会合で活躍しました。総理就任後、初の海外渡航となった1897(明治30)年、アメリカ・ニュージャージー州ノースフィールドで開催された万国学生基督教同盟会議には日本学生青年会同盟の代表として出席し、会議において副議長を務めました。また1910年、スコットランドのエディンバラで開催された万国宣教大会でも、数回の講演を行い、総務委員にも選出されました。井深はこの海外渡航について「一千九百十年エデンボロ府ニ開催セラレタル万国宣教大会ノ話」を書き残しています。

 

また1880年、東京基督教青年会の創立時には井深は会長に選出され、その後もキリスト教青年会運動の指導者として度々会長に選出され、海外の青年会大会へ日本代表として派遣されました。それらの大会では議長、副議長にも選任され大いに活躍しました。キリスト教青年会運動では「いぶかし(井深氏)や青年會に、禿頭」とその風貌をからかわれても楽しんで参加していたといいます。

1910年 世界宣教大会大会議場 於:エディンバラ 井深56歳

晩年の井深梶之助

1924(大正13)年3月、明治学院を辞した井深は70歳になっていました。この年の5月、井深は書を牧師仲間の秋葉省像に師事し、秋葉から「湧泉」の雅号をもって揮毫することを許されて書をたしなむ時間も持つようになりました。その一方で、井深は様々な方面で精力的に活動を続けました。

しかし1934(昭和9)年6月に脳溢血で倒れた以降は病床に臥しがちとなり、1940年6月24日、86歳の生涯を閉じました。葬儀は6月26日、多数の参列者のもと学院葬として明治学院礼拝堂で執り行われました。

1932年6月 書斎での井深梶之助 78歳

キリストに捉えられ、キリストのために生きて

戊辰戦争下の会津における悲惨な体験を乗り越えてキリストに捉えられ、薩長新政府への恨みから180度の価値観の転換を経て、キリストのために身を捧げた井深は、ヘボンが託したとおりに明治学院の「舵」を取り、明治学院の「航路」を導き続けるとともに、その生涯は明治・大正・昭和にわたり、日本のまた世界のキリスト教界、キリスト教教育、キリスト教青年会運動に大きな足跡を残しました。

その生涯はダマスコへの途上で復活のキリストに出会って変えられた使徒パウロ※2との合わせ鏡のようにも思われます。

注:

  • 山上の説教とも言う。マタイ福音書5章節から7章27節に出てくるイエスの説教。イエスの倫理の中核となる教えが述べられている。 馬太(マタイ)傳福音書第5章「43節 爾の隣を愛みて其敵を憾べしと言ること有は爾曹が聞し所なり44節 然も我なんぢらに告ん爾曹の敵を愛み爾曹を詛ふ者を祝し爾曹を憎む者を善視し虐遇迫害ものの爲に祈禱せよ」は「隣人愛」の教えとして有名な箇所である。
  • 使徒言行録第9章1節~31節、フィリピの信徒への手紙第3章1節~11節の記事を参照。

引用文献・参考文献:

  • 『井深梶之助とその時代 第一巻』1965年 学校法人明治学院
  • 「井深梶之助生誕150年記念号」『明治学院歴史資料館資料集 第1集』2004年 学校法人明治学院
  • 明治学院百年史委員会編『明治学院百年史資料集 第3集』1976年 学校法人明治学院
  • 秋山繁雄編『井深梶之助書簡集』1997年 教出版社
  • 中島耕二『近代日本の外交と宣教師』2012年 吉川弘文館
  • 『明治学院九十年史』1967年 学校法人明治学院
  • 『明治学院百年史』1977年 学校法人明治学院
  • 『明治学院百五十年史』2013年 学校法人明治学院