S.R.ブラウン

サムエル・ロビンス・ブラウン

“If I had hundred lives to live. I should give them all to Japan.”

S.R.Brown(1810.6.16-1880.6.20)

母の祈り~東洋伝道のための器に

ブラウン(Samuel Robbins Brown)は1810年6月16日、米国コネティカット州イーストウィンザーに生まれました。

ブラウンが生まれて間もなく、アメリカで最初の外国伝道協会が設立されました。その時、母フィーべは、ブラウンを抱きながら「この子を東洋伝道のためにささげます。」との祈りを捧げたと言われています。

青年時代~牧師への召命

1818年、ブラウンが8歳となった時、一家はマサチューセッツ州マンソンに移住し、ブラウンはマンソン・アカデミーに入学しました。この地で、過ごした日々はブラウンの信仰生活や人間形成の基礎を築く期間となりました。

1828年、ブラウンはアマースト大学に入学しますが、学費が払えずに退学を余儀なくされ、イエール大学に転入学し、学費を得るために働きながら学生生活を送ることになります。1832年、イエール大学を卒業したブラウンは、ニューヨークの聾唖学校の教師となりましたが、1835年、健康を害して教師を退職します。

サウスカロライナ州に転地療養したブラウンは、この地で約2年余りを過ごし、健康を十分に回復させるとともに、コロンビア神学校に学び、牧師になる決意をさらに深めました。回復したブラウンは1836年、ニューヨークのユニオン神学校に学び、1838年10月に卒業します。

中国へ遣わされて~東洋伝道の第一歩

1838年10月、ブラウンはモリソン教育協会から中国伝道の派遣宣教師に任じられ、宣教師としての按手礼を受け、同年10月17日、モリソン号に乗船して中国に旅立ちました。それは母フィーべの祈りの成就の時でもありました。この度立ちには新婚の妻であるエリザベス・バードレットを伴っていました。

中国に渡ったブラウンはモリソン記念学校校長として、マカオで4年、香港で4年、あしかけ8年、中国の子どもたちのための教育と伝道に励みました。1847年、妻エリザベスの病のため帰国を余儀なくされます。その際、ブラウンは優秀な3人の生徒をアメリカに連れていき、母校であるマンソン・アカデミーに入学させ、彼らは中国人最初のアメリカ留学生となりました。

中国からの帰国、ふたたび東洋伝道へ~日本宣教

帰国したブラウンは、ニューヨーク州ローマ市のローマ・アカデミーの校長として教育活動に専念しましたが、1851年に3月校長を辞して、同年4月から約8年間、ニューヨーク州オーバン近郊のオワスコ・アウトレット改革派教会の牧師を務めました。この間、ブラウンは青少年のためのキリスト教教育、アメリカにおける女子高等教育の推進、オーバン神学校での伝道者育成等多岐にわたって精力的かつ献身的な活動に励みました。

オワスコ・アウトレットチャーチ
OwascoOutlet Church (現 Sand Beach Reformed Church) の写真が原稿用紙に貼り付けられている。

1858年6月、「日米修好通商条約」が締結されると、アメリカの諸教会、外国伝道協会は日本への宣教師派遣を開始します。これを機に、ブラウンは再び外国伝道に赴く意思を表明し、1859年、G.H.F.フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)、D.B.シモンズ(Duane B. Simmons)とその家族とともに日本に派遣されました。ブラウン、シモンズは神奈川に、フルベッキは長崎に到着して、それぞれが日本宣教に踏み出しました。ブラウンはこの時すでに50歳になろうとしていました。

左からフルベッキ、ブラウン、シモンズ。
『真理と自由を求めてー明治学院120年の歩みー(明治学院120年記念写真誌より転載)』

来日後の精力的な教育~ヘボンとの再会

1859(安政6)年11月1日、シモンズとともに神奈川に上陸したブラウンは、神奈川成仏寺に居を構えます。ブラウンはこの地でヘボンと再会し、この時から約20年にわたって日本における宣教活動、とりわけ聖書翻訳事業の同労者となるのです。

実は1841年、ブラウンは教科書を作成するために立ち寄ったシンガポールで、医療宣教師として派遣されていたヘボンと出会い、親交をもっていました。この再会はブラウンにとってもヘボンにとっても大きな喜びであり、また心強く思ったに違いありません。

横浜英学所、新潟英学校、横浜修文館~英語教育者ブラウン

1862(文久2)年10月、幕府は横浜在住官吏師弟のために通訳者養成の目的で、横浜英学所を開設しました。ブラウンは神奈川奉行から英語教師となることを依頼され、ヘボン、J.H.バラ、タムソンらと英語を教えました。その時、用いられたのが『日英会話篇』(Colloquial Japanese, or Conversational English and Japanese)です。この書は後に、横浜修文館、ブラウン塾でも用いられています。横浜英学校での教育活動は、ブラウンにとっては英語教育にとどまらない人格的教育による宣教の場でもありました。

1867(慶応3)年、ブラウンは自宅が火災に遭い、『馬太(マタイ)傳福音書』『馬可(マルコ)傳福音書』の翻訳原稿だけを遺して、貴重な聖書翻訳資料を失ってしまいます。その失意ははかりしれないものがあり、ブラウンは一時帰国をすることにしました。

それから2年経過した1869(明治2)年8月、ブラウンは妻エリザベスと女性宣教師メアリー・キダ―(Mary Kidder)を伴って再来日しました。再来日してすぐに赴いたのは、新潟英学校でした。出発前に日本政府から「新潟の男子校」を管理することを依頼され、条件付きでこれを受諾していたのです。新潟英学校での英語教師は3年契約のはずでしたが、1870年6月には日本政府から「横浜の学校」の責任を持ってほしいとの依頼を受けて横浜に戻り、同年9月から横浜修文館の英語教師となりました。

横浜修文館での英語教師としての契約は3年間。校長格にも任じられました。修文館には新潟での教え子6人も駆けつけ総勢30名以上の生徒が集まり、またブラウンは生徒たちに『日英会話篇』、ウィルソン・リーダーを用いて英語を厳しく指導したと言います。この生徒たちの中に、後に明治学院第2代総理(現:学院長)となる井深梶之助もいたのです。

新約聖書の和訳を成す~日本人のための聖書を

横浜に戻ってきたブラウン夫妻が居を構えたのが山手211番でした。この山手211番のブラウン邸が新約聖書翻訳の拠点、また「ブラウン塾」が開設され日本のキリスト教界を担う伝道者養成機関となるのです。

1872年に第1回プロテスタント宣教師会議で新約聖書和訳を決議し、翻訳委員会の組織が作られ、ブラウンは新約聖書和訳の委員長に選出されました。この時、委員となったのは、S.R.ブラウン(改革派)、J.C.ヘボン(長老派)、D.C.グリーン(組合派)でした。ここに奥野昌綱、松山高吉、高橋五郎の日本人助手が加わり、1874年6月に新約聖書翻訳事業が本格的に始まりました。

この事業に先立って、ヘボンとブラウンの手による『馬可傳福音書』『予翰(ヨハネ)傳福音書』(1872年)、『馬太傳福音書』(1873年)が刊行されています。新約聖書翻訳委員会の訳業は1874年に着手以来5年におよび1879年11月に訳業を終え、さらに吟味を加えて12月に完成に至りました。完成した新約聖書は1880年、『新約全書』として出版され、同年4月新約聖書翻訳完成祝賀会が開催されました。

しかし、この席にブラウンは参加することができなかったのです。健康を害したブラウンは前年に帰国をしていたからです。

新約聖書巻之二 馬可傳福音書

ブラウン塾~日本最初の神学塾

1873(明治6)年、ブラウンは山手211番の自宅で「ブラウン塾」を始めました。横浜修文館でブラウンに学んだ生徒たちが、ブラウンを深く敬慕し、ブラウンのもとで学びたいと強く要請したからです。この年、キリシタン禁制の高札がようやく撤去されたのです。

ブラウンは英語から始まり聖書に基づくキリスト教神学も教えました。1876年に、アメルマンが講師として加わり、神学教育が充実するようになり、この塾から。井深梶之助、奥野昌綱、山本秀煌、押川方義、熊野雄七、植村正久といった明治キリスト教会やキリスト教教育界の指導者となった人たちを輩出しました。

雪の日のブラウン邸_ (『目で見る明治学院100年』より転載)
山手211番のブラウン邸。この私邸から始まった「ブラウン塾」から、日本キリスト教界の中心となる人物たちを輩出した。

ブラウン塾は1877年に開校した東京築地の「東京一致神学校」に合流することになり、ブラウン塾はその役目を終えました。しかし、ブラウン塾は明治学院の淵源の一つとなっています。またその神学教育・教職者養成は幾多の変遷を経て現在の東京神学大学にいたります。

日本基督公会設立~日本キリスト教会史上のペンテコステ

1872(明治5)年、横浜居留地にJ.H.バラを仮牧師として日本基督公会が誕生しました。教派主義によらない教会の形として特筆すべきものでした。その背後には、ブラウン、ヘボン、バラの感化と指導・協力があったからこそと言えるでしょう。この教会からは、ブラウン塾に学ぶ青年信徒が生まれ、また横浜バンドの一翼を担う力となりました。

しかし、日本基督公会の命脈は短く、日本基督一致教会が1877年に設立されたことにより解消されました。

地上での働きを終えて~ブラウンの召天

1879(明治12)年、帰国したブラウンは翌1880年、新約聖書翻訳の訳業が完了した知らせを受け取りました。この時の、ブラウンの感動と喜び、感謝の念はどれほどだったことでしょうか。

同年6月、イエール大学の同窓会に出席し、旧交をあたためました。また竹馬の友であったH.T.デューイ夫人宅で一晩をすごし、マンソンの共同墓地に眠る両親の墓参をして過ごしました。

墓参をすませたブラウンはデューイ夫人宅に戻り、床につき、その寝姿のまま天に召されたのです。70年の生涯でした。

参考文献:

  • 中島耕二・辻直人・大西晴樹共著「日本キリスト教史双書 長老・改革来日宣教師事典」 2003年 新教出版社
  • 明治学院人物列伝研究会「明治学院人物列伝 近代日本のもうひとつの道」 1998年 新教出版社
  • 高谷道男編訳「S.R.ブラウン書簡集 幕末明治初期宣教記録」 1965年 新教出版社