J.C.バラ

ジョン・クレイグ・バラ

キリスト教主義教育に半生を捧げた教育者 ~J.C.バラ・プログラムに今も名を留める

John. Craig. Ballagh(1842.9.25~1920.11.15)

来日まで~母の祈り

J.C.バラ(John. Craig. Ballagh)は1842年9月25日に誕生しました。J.H.バラ(John. Hamilton. Ballagh)は彼の10歳違いの実兄です。(ふたりはファースト・ネームのイニシャルが同じであるため、ミドル・ネームのイニシャルも記して区別をしています。)

10人兄弟姉妹の四男として誕生したJ.C.バラは、決して豊かな生活を送っていたわけではありませんでした。むしろ年長の兄弟たちはアルバイトをしながら学校に通うという窮乏した生活だったようです。しかし、信仰厚い両親のもとで子どもたちは育てられ、特に母からの信仰の影響は大きく、10人の子ども内4人は宣教師となり、その内、3人は日本への宣教師となりました。

そうした家庭に育ったJ.C.バラはニュージャージー州のTenafly Schoolを卒業後、Cherry Academyに進学し数学・天文学・土木・商業簿記を学び1864年に卒業すると、母校であるTenafly Schoolで1866年から1871年まで教師を務めました。

兄に招かれて~高島学校・横浜市学校・市中共立修文館の教師となる

1872(明治5)年6月、兄J.H.バラの要請を受けて来日し、兄に代わって高島嘉右衛門が創設した高島学校(藍謝堂)の教師として英語・聖書を教えました。この学校は一時期700名に及ぶ生徒を擁したと言われています。

その後1873年1月、高島学校は在来の洋学校である修文館と合併して横浜市学校となりました。同年3月に校舎が火災により焼失し、校舎を野毛山に移して、学校名も市中共立修文館となりました。高島学校以来、ここで教師を務めていたJ.C.バラですが、1875年7月に契約期限が満了となり、職を辞することになりました。

ヘボン塾で教える~在日米国長老教会ミッションへの加入

1875年8月、J.C.バラはリディア.E.ベントン(Lydia. E. Benton)と結婚し、横浜山手9番に居を構えました。敬虔な長老教会の信徒であった夫妻は、学校教育のプロとして米国長老教会在日ミッションに加入して、9月から横浜居留地39番のヘボン塾で教育事業をあたることになりました。

J.C.バラはヘボン塾の男子部を担当することになり18名の学生からスタートしました(1875年9月6日 ラウリー氏宛書簡)。※1この時、J.C.バラは33歳。60歳になろうとしていたヘボンはJ.C.バラに対して「牧師職でなくても彼がなす仕事はたくさんあり、…彼はカロザース氏の学校を引き受けることができ、その資格が十分あり、牧師職を望んでいる青年たちを指導することができます。」(1875年8月9日 ラウリー氏宛書簡)と若いJ.C.バラへ期待を寄せています。※2

J.C.バラはその期待に応えるかのように積極的に働きました(1875年9月17日 ラウリー氏宛書簡)。※3その結果、生徒数は増加し、ヘボン夫妻は塾のことを全面的にJ.C.バラ夫妻に任せることにしました。ヘボン夫妻は横浜居留地39番から山手245番に引っ越し、J.C.バラ夫妻が山手9番から横浜居留地39番に移ることになりました。

こうして従来、ヘボン塾と呼ばれていた学校は、バラ学校と呼ばれるようになりました。

バラ学校に学んだ人々には、松村介石、折田兼至、根本正といった人物が知られています。特に根本は小学校の授業料全廃、未成年者喫煙防止法・未成年者飲酒禁止法の制定に尽力、地域の発展と住民の福利厚生に貢献しました。

松村介石は「耶蘇信者には必ずなるまいと堅く契約を行った」にもかかわらずクリスチャンになったのは、J.C.バラの祈りにあったことを井深梶之助・W.インブリー・M.N.ワイコフ・J.C.バラ教授の学院勤続25周年記念祝賀会の席上祝辞で感謝・回顧しています。

「兎に角する内に一日僕が始めて心氣一轉する時が來た。一日僕はバラ先生をたづねた處が鍵がかヽつて居る、どーしたのかと戸に耳を當てヽ聽きすました所が豈はからんや先生は同輩の腕白連の村田君や坂田君やまた今日の松村當時の森本即ち僕の名をしきりと呼び上げて神に祈禱をさヽげて居られるではないか文句はよくわからなかったが其の先生の聲の色から我等の爲に神に祈っておられたのである僕等は其の時迄はバラ先生程の學者が宗教を信ずるとは全くの方便だと思って居ったが今人なき所でかくも熱心に我名を叫ばれるの見てバラ先生の偽りなきを信じそれより心氣ぐらいと一轉して三日三晩煩悶に煩悶を重ねて遂に罪を悔いたのであります。そこで直ちに其晩已に十二時過ぎであったが二階に居る信者の友人を敲き起そうとすれば皆々起きて居つてあー今君の爲に祈つて居つたとのこと、そこで僕も一所に祈つたがこれが抑僕がクリスチャンになった最初であります。」※4

築地大学校の開校~有力な中等教育機関へ発展

1880年4月、バラ学校は築地居留地17番の東京一致神学校に隣接した居留地7番に新校舎を建てて、移転することになりました。そして、この学校が築地大学校と呼ばれるようになり、キリスト教の専門教育を担うことになったのです。このためカリキュラムを整備し、修業年限も定めた首都における有力な中等教育機関となりました。学科目はいわゆるリベラルアーツとキリスト教関係科目であり、講義は原則として英語で行われたと言います。築地大学校は、キリスト教主義教育の樹立を志向した教育機関として、明治期日本に有為な人材を輩出しました。

J.C.バラは、築地大学校の校長として教育の責任を担いました。そのようなことから、築地大学校は「バラ大学」とも呼ばれました。

築地付近での男子ための教育機関は築地大学校のほかその例を見なかったので、社会的にも歓迎され、入学者が増えていきました。J.C.バラも築地大学校開校当時の模様を「4月26日、生徒20名をもって、ここで学校を始めた。生徒の大部分は横浜からきたものであった。入学志願の生徒数は増加し、6月初旬には55名になったので入学を打ち切った。9月1日には、もっと多くの生徒をいれて開校する予定である。」と北米ミッション本部宛てに報告しています。※5の一方で、築地大学校はキリスト教を強制し、みだりに大学の名称を用いているとの批判にもさらされました。

築地大学校に学んだ人々として、黎明期の日本野球界・学生野球界に名をはせた白洲文平、日本の写真文化の発展に影響を与えた小川一眞が知られています。

明治学院歴史資料館には築地大学校在学證書、入塾願が所蔵されています。

東京一致英和学校、そして明治学院へ~平信徒の教育者として歩む

1882年10月、J.C.バラはアメリカへ休暇のため一時帰国。1884年、再び日本に戻る直前に夫人のリディアが急死してしまいます。

J.C.バラの再来日に先立つ1883年、築地大学校は横浜でオランダ改革派教会によって経営されていた先志学校と合併して、東京一致英和学校となり、翌1884年には英和予備校も新設することになりました。先志学校の経営上の問題もあったのですが、長老・改革派教会の両ミッションが協力して、男子の普通教育を行うこととしたのです。

J.C.バラは、東京一致英和学校、英和予備校で授業を受け持ち、教育活動、学校経営に専心しました。この時期に、J.C.バラはレベッカ・フォールズ(Rebecca Falles)と再婚、レベッカはJ.C.バラの働きを支えました。

やがて築地居留地の狭隘な地から離れ、より広い土地で、キリスト教主義に基づいた教育を長老派・改革派教会が協力して行うことが志向され、1886年4月、東京一致神学校、東京一致英和学校、英和予備校を合併して一大クリスチャン・カレッジを創設することが決議され、同年6月には新しい校名を「明治学院」とすることが決定しました。同年12月に「私立学院設置願」を東京府に提出し、1887年1月19日設置認可がおりました。

明治学院の新校地が荏原郡白金村字玉縄台の約1,200坪の土地に決定し、その土地に新校舎と付属施設の工事が始まりました。建築完成までは築地の土地で授業が行われ、1887年9月、旧東京一致英和学校と旧英和予備校の生徒280名余りが白金に移りました。神学部の生徒が白金に移ったのは2年余り後の1889年のことです。

J.C.バラは明治学院普通学部教授となり、築地を離れて白金キャンパス内の宣教師館1号館に入居しました。この宣教師館が後にバラ館と呼ばれるようになります。

ガラス乾板(明治学院歴史資料館所蔵)

1900年6月22日撮影 神学部校舎兼図書館(現明治学院記念館)前にて
前列右から水蘆幾次郎、3人目熊野雄七、4人目井深梶之助、5人目M. N. ワイコフ、6人目H. M. ランディス、7人目J. C. バラ

J.C.バラは教授でしたが、理事員も兼ね、理事員としては会計を担当しました。J.C.バラが明治学院普通学部教授に就任したのは45歳。普通学部では、数学、天文学、簿記学を教えました。J.C.バラは長老教会所属のひとりの信徒として、キリスト教主義教育に尽力した教育者でした。また在日長老教会ミッションにあっては40年にわたって会計を務め、ミッションの健全な運営にも尽力しました。

落合太郎は『明治学院九十年史』のため寄せた回顧「余慶」※6でJ.C.バラと過ごした時間を以下のように生き生きと描いている。落合太郎が明治学院に入学したのは1905年ですから、その時J.C. バラは60歳を超えていた頃です。老境に達した外人教師と20歳前後青年との触れ合いに、心温まるものを感じさせます。

たしか三年生時分のことである。わたしは神学部の二階に上がりこみ、放射状の書架から好きな本を勝手にぬきだして見ることをおぼえてしまった。なるたけ製本の奇麗なのをさがした。わかってもわからなくても、気にいれば読みおわるまで放さなかった。いいかくれ場所にして、ずいぶんいろんなものをよんだ。この書庫へは、バラ(ジョン)さんに連れられて上がったのが最初である。このお爺さんがえらい大先生であると知ったのはよほどあとである。わたしたちふたりは、早くから日向ぼっこ同志で親しかったのである。書庫には二つ三つの小さなテーブルと数々の椅子もあったけれどいつもひっそりとして人の出入りはすくなかった。今にして思えば、山の小狸が民家のいろりばたに坐りこんでいたようなものであろうが、だれひとりこれを怪しみもしなかった。

裏面に「明治四十年二月十四日撮影 神学博士総理井深梶之助 神学博士ウエリアムイムブリー 理学博士マーテン・エヌワイコフ ジヨンシーバラ 如上四教授就職二十五年祝賀記念のため ヘボンホール前にて」との書き込みがある。

晩年のJ.C.バラ~日本の地に妻と共に眠る

1917年、J.C.バラは明治学院創立四十年記念式には勤続37の表彰を受けました。しかし、翌1918年の暮れごろから病を得て、療養の身となりました。1920年11月15日、J.C.バラは鎌倉の地で77年の生涯を閉じました。

その生涯は、ひとりの教育者として日本の地で、休暇帰国をはさんで約46年をキリスト教主義教育にささげた生涯だったと言えるでしょう。

J.C.バラのなきがらは、先だった妻レベッカと共に明治学院に程近い瑞祥寺に眠っています。

J.C.バラの名前は、今も明治学院系列校から明治学院大学に進学する生徒たちの入学前プログラムである「J.C.バラ・プログラム」にその名を留めています。

引用文献:

  • 岡部一興編 高谷道男・有地美子訳『ヘボン在日書簡全集』 教文館 2009年 306頁
  • 上掲 302
  • 上掲 309頁
  • 宮地謙吉編「四教授在職廿五年祝賀」 『紀念號 白金學報 第十一號』 1907年 42-42頁
  • 『明治学院九十年史』 56頁
  • 「『明治学院九十年史』のための回想録」『明治学院歴史資料館資料集第2集』2005年 132頁

参考文献:

  • 秋山繁雄 『明治人物拾遺物語―キリスト教の一系譜―』 1982年 新教出版社
  • 中島耕二・辻直人・大西晴樹共著 『日本キリスト教史双書 長老・改革教会来日宣教師事典』 2003年 新教出版社
  • 岡部一興編 高谷道男・有地美子訳 『ヘボン在日書簡全集』 2009年 教文館
  • 鈴木範久監修 日本キリスト教歴史大事典編集委員会編 『日本キリスト教歴史人名事典』 2020年 教文館
  • 「明治学院九十年史』のための回想録」 『明治学院歴史資料館資料集第2集』 2005年
  • 宮地謙吉編「四教授在職廿五年祝賀」 『紀念號 白金學報 第十一號』 1907年
  • 『明治学院九十年史』1967年 学校法人明治学院
  • 『明治学院百年史』1977年 学校法人明治学院