インブリー館

1887(明治20)年1月に設置認可を受けた明治学院は、白金の地にキャンパスの整備を始めます。サンダム館(普通学部校舎兼講堂)やヘボン館(寄宿舎)とともに、外国人宣教師たちの住宅がキャンパス内に建設されました。インブリー館はそのうち1棟で、竣工は1889年頃と推測されています。インブリー夫妻(William Imbrieとその妻Elizabeth Doremus Jewell)が長く住んでいたため、この名前で呼ばれています。都内に現存する最古の宣教師館であり、日本での洋風住宅の変遷を知る基準作としての位置を占めます。

1964(昭和39)年国道拡幅のため現在地へと構内を曳家。1983年に港区指定有形文化財(建造物)に指定。1995(平成7)年から1997年にかけて大規模な修復工事が、2012年再塗装工事が行われました。1998(平成10)年に国の重要文化財(建造物)、2002(平成14)年に東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」に指定されました。

竣工(1889(明治22)年)頃と修復工事(1997(平成9)年)頃のインブリー館

洋風住宅としてのインブリー館

人が住んで生活するための空間として建てられ、インブリー夫妻が長く住んだため「インブリー館」という名前で親しまれていますが、この建物の最初の住人はインブリーではなく、マコーレイ(James Mitchell McCauley)であったと推測されています。

J. M. マコーレー

W. インブリー

玄関扉が内開きの扉になっている。海外(特に欧米)では内開き、日本では外開きが主流である。
インブリー館が外国人宣教師住宅を目的として建設された住宅であることを示している。

ドアノブが金属製ではなく、焼き物で作られている。洋風住宅に取り入れられた、「和」のテイスト。

内装に用いられた漆喰壁。ホールの漆喰壁の色はグレーで松の炭を練りこみ、発色させている。1階の部屋は白い漆喰壁とワニス塗の落ち着いた雰囲気に、2階の部屋は黄色い漆喰壁と雲母紙張り天井の華やかなものになっている。黄色の漆喰壁は塗料を使ったわけではなく、卵の殻が練りこまれている。卵の殻を練りこむことで、黄色に自然発色する。1階ホール、1階の各部屋、2階廊下スペース、2階の各部屋の漆喰壁の色を変えることでパブリックな空間とプライベートな空間の違いを作り出している。これは、創建時の各部屋の使い方の推定と符合させると納得できる。

キャンパスの中で生き続けるインブリー館

インブリー館が竣工したとされる1889(明治22)年以来、3度の大きな地震、2度の火災、第2次世界大戦(アジア・太平洋戦争)という危機を乗り越え、姿を少しずつ変えはしたものの、1995(平成7)年〜1997年の大規模な保存修理工事を経て竣工当時の姿を取り戻し、インブリー館は現在に至ります。

また、都内の洋風住宅としての価値は、建築史・住宅史的なものだけでなく、都市環境のなかの景観的価値も含みます。インブリー館は、学院内での移転(曳家)はしているものの、都内の台地の南端に建つ景観的位置に変わりがなく、都市内の景観的要素としての存在意義が大きいと考えられます。周囲の道路からも見えるため、多くの方に知られている存在なのではないでしょうか。外国人宣教師住宅という特異な種類の建物が、このような都市景観上の構成要素となっている例は特殊だと言えます。また、学院内にインブリー館が孤立して残存しているのではなく、礼拝堂(チャペル)、記念館と並んでひとつの景観を構成しています。これらは、明治学院が100年以上の歴史を同一の土地の上に刻みつづけている結果として形成されているものです。

更にインブリー館において重要なことは、「常に、そこに人がいて使い続けるという場所」であるという点です。最終的にインブリー夫妻が日本を離れるのは、1922(大正11)年秋のことです。その後、インブリー館はしばらく空き家になりますが、大正末期から昭和初期までは当時の明治学院総理であった田川大吉郎の執務室となっていました。1927(昭和2)年以降は学院関係者の住宅や会議室として利用され、1964年の国道拡幅に伴い現在の位置に曳家されます。1964年から2012年まで同窓会館として使われ、現在は歴史資料館事務室と学院牧師室として使われています。このように、長い間インブリー館はそこに人がいて使い続けられています。

1963(昭和38)年東京オリンピック開催に向けて、東京都都市計画委員会が、五反田から清正公前までの国道一号線の拡張計画を決定し、それに合わせて、明治学院の用地を買収することになった。しかし、その敷地上にはインブリー館と記念館の2棟が建っていた。この出来事はインブリー館、記念館が存続するのかの最大の危機であった。この用地買収に先立ち、1962年に学院長に就任していた武藤富男は、卒業生らの記念館保存運動を受けて、インブリー館・記念館を保全・活用する方針を打ち出した。こうして、インブリー館と記念館は1964年〜1966年に曳家されて現在地に移され、取り壊しを免れた。

文化財としてのインブリー館

現存する宣教師館として、また洋風建築として、日本におけるその変遷史を辿る上で基準作とも言える位置づけを与えられていることがインブリー館の特徴です。東京都内にはいくつかの初期洋風住宅建築が残されていますが、外国人宣教師館はインブリー館のみです。明治初期の純粋な西洋人住宅としての価値が高く、同時代(19世紀の中頃から後半にかけて)のアメリカの住宅様式の影響を色濃く残している、実質的な生活を重視した設計など、明治期の外国人宣教師館としての文化的価値が高いと言えます。

また、都内において現存する最古の宣教師館であり、東京において初期に多くのキリスト教宣教師らが居住した築地から建築物がすべて失われている現在、きわめて貴重であること、我が国における洋風住宅導入過程、洋風住宅の変化を知る上で指標となるものとして建築史的価値が高いことが挙げられます。

文化財登録
1998(平成10)年
国の重要文化財に指定
2002(平成14)年
東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」に指定
建設年
1889(明治22)年
設計者
不詳
構 造
木造(屋根:銅板一文字葺)
規 模
地上2階 延床面積301.30平方メートル

インブリー館修復Q&A

インブリー館を命名したのは誰ですか?
故武藤富男(元学院長)氏です。
修復前と色が変わったように思います。
確かに、修復前はかなり濃い色をしていました。玄関のポーチの壁からの塗料片を紙やすりで擦ったところ、順番に薄い水色、肌色、濃い茶色の層が現れました。1923(大正12)年の写真では、柱の部分が濃い茶色で下見板の部分が肌色であったと思われます。インブリーが明治学院を去るまでは、修復後のような状態であったと考えられます。
煙突が復元されていますね。
これは暖炉の煙突で、1963(昭和38)年の火災後、屋根修理の際に取り払われたものだと思われます。この他に窓の鎧戸やバルコニー、入口ポーチの手すりや階段などが資料から復元されています。
ガス灯の器具跡があるんですね。
七箇所ありますが、創建当時の灯具はランプであったと思われます。
東京ガスの設立は1885(明治18)年ですが、当初から白金付近に供給されていたとは思えません。また、電灯がガス灯を追い越して家庭に普及したのは、1903年から1907年にかけてであり、おそらくインブリー館でも明治末期から大正初頭に電灯がともったのでしょう。
板ガラスはインブリー館創建当時の頃に日本に存在したのでしょうか?
国産品の板ガラスは1903(明治36)年に島田板ガラス製作所によって作られており、創建当時はすべて輸入品の板ガラスを使用していたと思われます。
解体調査中に壁内に貼られた紙がたくさん出て来たそうですね。
これは、稲わらから作られた洋紙でした。
1881(明治14)年大蔵省が栃木県小山市で稲わらパルプの工業化に成功していますから、古いものです。紙には監督者と思われる人の鉛筆書きの見取り図や、大工が筆で書いた絵や名前などがありました。これらはインブリー館を建設した人々が残した記録として、また日本人の大工によって建てられたことを裏付ける資料として港区指定有形文化財となりました。
インブリー館の変遷
1888(明治21)or1889(明治22)年頃
竣工
1888or1889~1898(明治31)年
マコーレー宣教師夫妻入居
1898~1922(大正11)年
インブリー夫妻入居 1922年インブリー夫妻帰国
1914(大正3)年11月24日
サンダム館火災の際、類焼で屋根が一部燃える
1927(昭和2)年(推定)
インブリー夫妻が帰国して日本人が住むようになった頃に改装が行われる
1927~1934(昭和9)年
明治学院高等学部長笹尾粂太郎公宅
1934~1942(昭和17)年
会議室等に用いられる
1942~1964(昭和39)年
明治学院大学教授 松本亨一家(当時)入居、明治学院総主事 杉本民三郎一家(当時)入居
1963(昭和38)年9月4日
付属屋より出火、附属屋焼失 インブリー館の屋根一部類焼
1964~1966(昭和41)年
曳屋工事 1966年 武藤富男学院長(当時)により「インブリー館」と命名
1966~2012(平成24)年
明治学院同窓会本部として利用
1995年〜1997(平成9)年
大規模な保存修理工事
2013(平成25)年~
1階を歴史資料館事務室として利用

参考文献:

  • 明治学院文化財等保存修理委員会編『明治学院旧宣教師館(インブリー館)建物調査報告書』 1995年 学校法人明治学院
  • 鈴木範久監修 日本キリスト教歴史大事典編集委員会編『日本キリスト教歴史人名事典』 2020年 教文館