明治学院礼拝堂(白金チャペル)

この礼拝堂は日本に数多くの教会建築・学校建築を残したW.M.ヴォーリズの設計によるもので、1916(大正5)年3月に竣工しました。竣工当初は南北方向に長い、長方形の姿をしていました。1923年9月1日に発生した関東大震災により礼拝堂は深刻な被害を受け、震災により被災した礼拝堂の補強と破損した仕上げの復旧工事が行われました。外壁側面にバットレスが設置されたのはこの時でした。

1926年、明治学院創立五十年記念事業準備委員会等が立ち上げられ、礼拝堂について「礼拝堂を改修して約二百人の生徒席を増設する」との決定をしました。こうして、1930(昭和5)年から1931年にかけて学生数の増加に合わせて堂内の収容人数を増やすために東西袖廊増築工事が行われました。建物の変遷上、最も大規模となったこの工事により、上空から見ると礼拝堂の姿は十字形になりました。その外観は大きく変わり建物の規模も含めて、ほぼ現在の姿となりました。

2006(平成18)年から2008年にかけて保存修理工事が行われました。この際、ヴァルカー社のオルガンを設置するために改装された礼拝堂正面講壇の姿を竣工当時の姿に戻す工事が行われ、ヴォーリズが設計した講壇の姿を見ることができるようになりました。

1916年の竣工以来、同じ場所に立ちづけている礼拝堂はキリスト主義教育を掲げる明治学院を象徴する建造物となっています。

建物外観

チャペルの改修工事により(2008年2月竣工)、正面講壇が創建当時の姿に

トップライトからは柔らかな陽が入る

チャペル東側袖廊窓のステンドグラス
黄色のガラスが十字架の形に配置されており、チャペルの中に柔らかな陽ざしが注ぎこむ

礼拝堂の変遷

念願の専用の礼拝堂を得る

白金に移転した当初から専用の礼拝堂建設を望んでいた学院は、宣教師E. R. ミラー(Edward Rothesay Miller)から寄贈されていた土地と邸宅を売却し、これを礼拝堂建築資金として1903(明治36)年にミラー記念礼拝堂(講堂)を建設しました。

この礼拝堂は1894年から翌年まで学院の建築顧問を務めていたドイツ人の建築家R. ゼール(Richard Seel)によって設計されました。当時の図面などは発見されておらず、建設の規模、詳細は不明で、数少ない古写真から外観の様子がわかる程度です。

ミラー記念講堂

礼拝する場を失った学院

の礼拝堂は竣工後、わずか1年数カ月後の1905(明治38)年の地震により大きな損害を受け、復旧工事をするも1909年に起こった地震により被災し使用をつづけることが不可能となってしまいました。

このため学院は礼拝のための施設をサンダム館2階の講堂に移し、ここを礼拝堂としました。ところが1914(大正3)年11月24日の授業中、サンダム館2階講堂の天井から火の手があがり、サンダム館は全焼してしまいます。こうして学院は礼拝を行なう場を失いました。

灰燼に帰したサンダム館

サンダム館火災について記録した文書(冒頭部分)

新しい礼拝堂の建設を目指して

礼拝を行なう場を失った学院は新しい礼拝堂の建築を急ぎました。井深梶之助総理(学院長)とインブリー博士は、理事会に諮り建築資金の調達に奔走。米国プレスビテリアン(長老派)、リフォームド(改革派)の両ミッションに上申書を送り援助を懇請しましたが、この段階では金銭的な援助を受けることができず、建築計画は再検討を余儀なくされました。そこでセベレンス氏からの寄付が建築のための資金にあてられることになりました。あわせて建設費を抑えるために、取り壊されたミラー記念礼拝堂(講堂)の解体材を再利用することを条件として、建築計画を進めました。

そうした経緯のなかで、礼拝堂設計を担当することになったのがW. M. ヴォーリズでした。ミラー記念礼拝堂の前例があるので、特に基礎工事を堅固にし、1915(大正4)年10月29日に定礎式を行い、当時来日中のプレスビテリアン外国伝道局主事スピーア博士が礎石をすえました。工事は順調に進行し、翌1916年3月に落成しました。同月27日には卒業式を兼ねて献堂式が行なわれました。

その後、関東大震災による被災からの復旧工事、1930(昭和5)年から1931年にかけて行われた東西両袖廊の拡張工事を経て、現在の姿となりました。

明治学院礼拝堂とオルガン

メイソン&ハムリン社製の大型リードオルガン

礼拝堂が竣工すると、メイソン・ハムリンのリードオルガンが設置されました。このオルガンはA.K.ライシャワー宣教師の尽力によりアメリカのプレスビテリアン・チャーチから寄贈されたものでした。オルガンが学院に到着した当初は、サンダム館2階の講堂に設置されました。しかし、その喜びも束の間、1914(大正3)年11月24日のサンダム館の火災という危機に直面します。このオルガンを灰燼に帰してはならないと当時の学院教職員・学生は必死になり、オルガンを2階から持ち運び出しました。この努力によってリードオルガンは焼失を免れました。

竣工間もないころの礼拝堂内写真

メイソン&ハムリン社製の大型リードオルガンは1957(昭和32)年にキリスト教音楽学校(現:キリスト教音楽院)に貸与されるまでの間、学院の公的行事・礼拝で、演奏され続けました。このリードオルガンを演奏した著名な人物として木岡英三郎、鳥居忠五郎、森有正といった人物を挙げることができます。

しかし、特筆しなければならないのは安部正義です。安部正義は東北学院卒業後、ボストンのニューイングランド音楽院でピアノ・声楽・作曲を学び、帰国後、明治学院で教鞭をとり、毎日の礼拝で奏楽を担当してこのオルガンを弾きました。このかたわら日本で最初のオラトリオ作品となるオラトリオ『ヨブ』を作曲しました。日本人の手によって初めて作曲されたこの楽曲は歴史を画する貴重な作品です。

メイソン&ハムリン社製の大型リードオルガンを演奏する安部正義(沖本まや氏提供)

パイプオルガン導入

1957(昭和32)年、キリスト教音楽学校にメイソン&ハムリン社製の大型リードオルガンが貸与されて以降、礼拝ではヤマハ製のエレクトーンが使用されていましたが、1961年にパイプオルガン導入を検討するオルガン委員会が立ち上げられました。

1963年12月、西ドイツ・ヴァルカー社にオルガン製作を発注することが決定しました。費用に関しては、組み立て費用を除く全額を、アメリカの長老教会および改革派教会が負担してくることになりました。

1966年2月19日、礼拝堂にパイプオルガンが完成し、奉献式が執り行われました。講壇いっぱいに広がったパイプの列は「天使が翼を広げているようだ」と言われました。そのデザインは「明治学院の学生が世界に羽ばたいていって欲しい」との願いをG.J.ヴァン・ワイク宣教師が込めたものだと言われています。

西ドイツ・ヴァルカー社のオルガン

このオルガンは礼拝堂保存修理事業が開始される2006(平成18)年4月まで礼拝堂にその音色を響かせました。その後、礼拝堂保存修理事業に合わせてオルガン更新事業が行われることになり、このオルガンは役目を終えます。2006年4月には惜別の思いを込めて、フェアウェル・コンサートが開催されました。

よみがえったバッハ時代の音色

現在、礼拝堂に設置されているオルガンは2009(平成21)年10月24日に奉献式が行われました。

このオルガンは2,045本のパイプ、2段の手鍵盤と足鍵盤、6つの鞴(ふいご)から構成され、木質部分はすべて無垢のオーク材が用いられた総重量11トンにも及ぶ「工芸品」ともいうべき楽器です。そして、このオルガンの最大の特徴は、17~18世紀のオルガン工法を忠実に再現したことでよみがえった「バッハ時代の音色」にあります。

オルガン製作者はオランダ人、ヘンク・ファン=エーケン氏で、2009年当時、この工法で製作されたオルガンは世界で4台であり、日本では最初のオルガンでした。

2009(平成21)年10月奉献。一度失われた17-18世紀のヨーロッパの工法を復活、再現し、「バッハ時代の音色」を奏でている

戦時下の明治学院と礼拝堂

~戦時遺構としての「御真影」奉安所跡

「御真影」の下付に関しては「奉安する適当な場所がない」としてのびのびになっていました。しかし、ホキエ学院長事務取扱は文部省から再三にわたり注意を受け、ついに礼拝堂の東南の一角を改造して「奉戴」することとなりました。1938(昭和13)年10月26日のことです。

御真影奉戴にあたり、ホキエが文部省に出向いたところ、ホキエが外国人であることを理由に「御真影」を手渡さず、随行していた加藤七郎幹事に手渡したといわれています。学院では教職員・学生が正門からチャペルまで整列して「御真影」を迎えました。

ホキエは1939年8月、矢野貫城に学院長職を譲り、翌年、帰米しました。これ以降、学院は軍国主義・ナショナリズムの嵐に巻き込まれていきます。

「御真影」奉安所は、戦後、撤去されますが、学院では現在も礼拝堂の東南の一角に「奉安所」であった場所が残されています。

御真影を奉戴した車列とそれを出迎える教職員・学生

御真影奉戴式当日写真(正門)

チャペル南立面 鉄扉

文化財登録
1989(平成元) 年
港区指定有形文化財に指定
2002(平成14)年
東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」に指定
建設年
1916(大正5)年
設計者
W.Mヴォーリズ
構 造
煉瓦造、一部鉄筋コンクリート造
規 模
2階建 延床面積553.61平方メートル

明治学院礼拝堂(白金チャペル)の変遷

1916(大正5)年3月
竣工
1923(大正12)年
関東大震災の発生により深刻な被害を受ける。復旧工事の際に外壁側面にバットレスがつけられた。
1930(昭和5)年~1931年
生徒の増員に伴い、礼拝堂を拡張。この時に現在の十字形の礼拝堂になる。
2006(平成18)年~2008年
保存修理工事が行われる。この時に、ヴァルカー社のオルガンを設置するために改装された礼拝堂正面講壇の姿を竣工当時に戻す工事が行われ、2009年10月に新しいパイプオルガンの奉献式が行われた。

参考文献:

  • 『明治學院五十年史』 1927年 学校法人明治学院
  • 『明治学院百五十年史』主題編 2014年 学校法人明治学院
  • 明治学院文化財等保存修理委員会編『明治学院礼拝堂保存修理工事報告書』2008年 学校法人明治学院
  • 明治学院文化財等保存修理委員会編『明治学院礼拝堂(チャペル)建物調査報告書』1996年 学校法人明治学院
  • 『明治学院とリードオルガン明治学院創立155周年記念 教育的文化遺産保全事業』2019年11月 学校法人明治学院